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2021年5月9日 主日礼拝説教

「救うのはだれか」

申命記5章12〜21節​

 ローマの信徒への手紙7章13〜25節

吉平敏行牧師 

 ローマ書7章は、「罪」とは何かという救いの根本問題を、パウロ自身の経験に照らし、論理的に分析して、人間には得体の知れない力が働いていることを突き止めていく作業を記していると考えて良いでしょう。

 ここは、人を造る肉体と霊、言ってみれば魂とか心と呼ぶ領域の解剖のようです。肉体から閉じ込められている「わたし」を区分し、取り分けて、解放させる手法です。もし、その分離ができれば、霊的には自由になれます。しかし、肉体がなければ生きられませんので、完全に切り離すことはできず、その中で自由にされる、にはどうしたら良いのかという説明になります。

 パウロは13節で、「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。」と書きます。「善いもの」とは律法全体、その中身としての掟です。ここから、その良いものを悪くさせる正体を暴いていくことになります。

 ここを読むにあたり、パウロが「わたし」と書く、その「わたし」とはだれかを考えねばなりませんが、ここは、既にイエス・キリストによって救われているパウロが、その救いの中身を分析していると考えます。イエス・キリストを信じて救われているけれども、私たちを悪に向かわせる力から完全に解放されているわけではない、キリスト者の現状として読むことができます。救われているとはいえ、肉体を持つがゆえの苦悩、どうにもコントロールが効かなくさせる葛藤がある自分をどう理解するのか、ということになります。

 パウロは、25節で「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と一応の納得をしています。考えでは神の律法に仕え、体は罪の法則に仕えざるを得ないというところまで行きます。(「律法」も「法」も原語は同じですが、邦訳は使い分けていることに注意)完全に気持ちが晴れているわけではない。しかし、ここに至り「わたし」と肉体とを区分できた、と考えます。

 キリスト者は、確かに自由は与えられたのですが、同時に体の中には罪を犯させる何らかの働きがあることを自覚していなければなりません。

 日本のクリスチャン人口が1%未満と言われて久しいですが、その原因は教会の外にではなく、教会自体に福音が勢いを持って広がっていく力がない、あるいは成長を抑え込む要素があるのではないかと思っています。教会生活を不自由に感じているキリスト者が多いのではないか。周囲からすると、決して悪い人たちではないのだけれど、何だかつまらなそうに思われているのではないか、そんなことまで感じてしまいます。本当の自由を与える福音とはいかなるものであるのか。なぜそうならないのか、それを考えねばなりません。

パウロは律法を霊的なものと見ます(14)。

 パウロは、「霊的」を神の深みさえも究める手段と考えます。つまり、人を知るには、人の霊による。同じように、神を知るには神の霊による他はない。そして、キリスト者は世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けた者だから、その霊によって、神から恵みとして与えられたものを知る、とパウロは説明します(コリント一2:10〜12)。ですから、律法はこの世の法とは異なり、神的な権威を持つのです。パウロが「むさぼってはならない」に違反したと感じた瞬間に、律法により罪と定められ、死に処せられたと考えたのです。その状態のパウロが「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(15)です。こうした状態をアウグスティヌスは「告白」(第8巻9章)でこう記します。

 「いったい、こんな奇怪なことは、どこから起こってくるのでしょうか。なぜ、こんなことが起こるのでしょうか。精神が身体に命ずると、身体はただちに従うのに、精神が自分に命ずると、さからうとは。」アウグスティヌスはそれを「精神の病」と呼び、「すなわち精神は、真理によって上方に引き起こされながらも、習慣に押さえつけられているために、完全に起き上がることができないのです」と説明します。

 フランスの女性思想家シモーヌ・ヴェイユは、それを「重力と恩寵」という言葉で説明します。「たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外されている。」そこでこういう一例を挙げています。彼女は頭痛が激しくなると他の人の額の同じ所をなぐりたくなると言うのです。「そんな状態のとき、わたしはなぐりはしなかったものの、人を傷つけるような言葉を口にするという誘惑に負けてしまったことが何度もある。重力に屈してしまったこと。最大の罪。」彼女は、自分を引き上げる恩寵という恵みの力と、重力のごとく自分に働く罪の力を知っていたのです。

 それをパウロは「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」と説明します。こうして、罪は私たちの精神を肉体に屈服させ、思いがけない行動を引き起こす根本原因となっていることが明らかにされます。

 自分の捧げ物が神に受け入れられなかったからと腹を立てて弟のアベルを殺してしまったカイン。あるいは、ちょっとしたことでカッとなって、人を刺してしまったというような、憤りが罪を犯させてしまう構造も同じです。

 パウロはこう解析します。「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」ここに3つの法則が示されます(「法則」は「律法」と同じ原語)一つは「心の法則」です。肉体がないために自由に物を考えることのできる法則です。もう一つが「罪の法則」で五体の中に存在します。しかし、その五体の中には「もう一つの法則」と書かれる、全く異質(ヘテロ)の法則が存在している、と言います。

 人には「心の法則」と「罪の法則」が同居していて、そこに思いがけない力を働かせる、異質の法則がある。それが「心の法則」を肉体の「罪の法則」に従わせようとする。食欲、性欲、金銭欲、名誉欲といった、それ自体、生きていくために大切で必要な本能に働きかけ、「心の法則」に向かおうとする私を「罪の法則」へ従わせようとさせる。結果として、善いものが負け、悪いものになってしまう。心の法則に従おうとしても、ほぼ全敗。それが、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」という叫びになるのです。

 イエス・キリストを信じたと言うだけでなく、その「もう一つ別の法則」に気づいているかどうかが問われてきます。

計算の初歩に四則のルールがあるように、また自然界には目に見えずとも万有引力の法則が働いているように、霊的に見れば、私たちの中にこうした法則が働いているのです。

 パウロは、自分の肉体を「死に定められたこの体」と呼び、その体から「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と書きます。これはパウロの悲痛な叫びです。そうした厳しい問い詰めを自分に課するには、救いに与っていないと精神が保ちません。そこに、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言う感謝が出てくるのです。

 私たちの救いは、人間の内にある、普通は自覚されない「もう一つ別の法則」から逃れられるかにかかってきます。「心の法則」で物を考え、希望を抱き、天上に上って行くことは可能ですが、同時に体には「罪の法則」があって、その二つの間を生きることになります。そこに「もう一つ別の法則」が働くのです。その存在を明らかにする役割が律法です。「罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示される」(13)は、そのことを指します。律法は霊的なものであるからこそ、霊的な悪の力の正体を露わにすることができるのです。

 そこまで分析できれば、「もう一つ別の法則」を乗り越えさせる法則を知れば善いことになります。それが8章で言う「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」となります。

 それを、今月の終わりに扱います。