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2022年1月2日(日)新年主日礼拝説教  

  説教 「神の家、神の教会」

                  吉平敏行牧師

  聖書  ヨハネによる福音書2章22〜33節

      テモテへの手紙一3章14〜16節

 神戸布引教会は、今年度の標語を「神の家、生ける神の教会」としました。主の日の礼拝を共にすることができないでいる家族、親族、かつて日曜学校や礼拝にいらした方々が戻ってこれるように、私たち自身がキリストにあって整えられていきたいと思っています。

 今日は、その標語の出典となるテモテへの手紙一から、信仰生活の基本となる二点を取り上げたいと思います。

  テモテはパウロの第二次伝道旅行から宣教を共にした愛弟子です。ギリシャ人の父と、パウロの宣教によりキリスト者となったユダヤ人の母と祖母を持つ、人々に評判の良い青年でした。二通の手紙を読むと、パウロがいかにテモテを愛し、信頼し、様々な面で案じていたかが分かります。

 パウロはそのテモテに、ギリシャ世界の伝道の拠点となるエフェソに滞在するよう勧めていました。エフェソの町と教会の状況は、昨年お話ししてきたとおりです。教会も信仰的には非常に混沌としていました。各自聖書を持っているわけではなく、神について、御子イエスについて、聖霊について、教会について、正しく知る必要がありした。そのためにテモテを遣わしていたのです。

 信仰生活の基本の一つは、目標を一人一人の生き方に置くということです。パウロは「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」(15)と書くのです。

 「家」は生活の拠点、自分がいるべき所です。それは、教会堂のことではありません。広義には、イエス・キリストを信じる者たち全体を指すでしょう。狭義には、信仰の確信、信仰告白とも言えます。ただ、信仰生活は、それぞれが連なる教会として考えていくのが実際的でしょう。聖書から広い意味で教会を考えながら、自分が身を置く日本キリスト教会神戸布引教会の会員として考えることが大切です。

 パウロは、その信仰の目的をこう言います。

わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。(1:5)

 信仰とは愛することを目指すものです。しかし、パウロは「ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました」(1:19)とも書きます。つまり、信仰の目標に到達するには、信仰だけでは不十分で、「正しい良心」必要とすると言うのです。

 「良心」という漢語に「良い」という字が付きますから、初めから心の奥深くに良いものがあると思われがちですが、その良心が「正しい」かどうかは分かりません。結局、「丁寧で、相手を思いやる、優しい心」ぐらいに思い、それを「良心的」と考えています。決して悪くはないのですが、そういう上辺の雰囲気を生み出す土壌を作ってしまいます。的確な言葉で、警告を発しても受け入れてもらえないような風土はないでしょうか。

 パウロが意図しているのは「正しいことと間違いとを区分する、内的な判断力」です。感覚に基づくものではなく、聖書に則った視点、考え方と言えるでしょう。ただ、それは聖書の規則や細則を、聖句を引用して指摘するのではなく、律法の精神から逸脱しない生き方、パウロは別の文脈で「キリストの律法」とも言います。

 今日では「信仰と理性」と言うかもしれませんが、その「理性」なる言葉には、まずは疑ってみるという、素直に「信じること」への反発も含まれています。従って「信仰と理性」は、状況に応じた倫理、キリスト教倫理へと向かわせ、本来の信仰が目指すもの、自分の内面、神との関わり、信じる者たちが共にどう生きるのかという神の民の視点から逸らせてしまいます。

 そこに、パウロが言う「神の家」の理解、一つの信仰によって集まる者の群れ、信仰共同体の生き方として取り組んでいく課題が生まれます。日本キリスト教会は、本来そうした一つの信仰に立つ教会の建設を目指していました。

ですから、この手紙には、そうした「神の家」に連なる教会員の在り方、生き方といった具体的なことが述べられています。

 2章には「王やすべての高官のために」3章には「監督」や「奉仕者」の生き方。さらに5章では老人、年老いた婦人たち、身寄りのないやもめ、長老の職に就いている人たちへの配慮、奴隷と主人について記しています。エフェソの信徒への手紙では、夫婦、親子の関係に至るまで記されています。こうした多様な関係性の中に「神の家」があります。「神の家」は社会の只中にいるのです。

 こうしたパウロの指摘は、私たちの信仰理解に反省と悔い改めとを求めます。これまで信仰を漠然と考えてきてはいなかったでしょうか。もう一度、聖書のみ言葉に立ち返り、共に生きるという共同体的な視点を養っていく必要があります。

 そこで問われてくるのが、信じる事柄の内容です。それが二番目のポイントです。「真理の柱であり土台である生ける神の教会」の理解です。「生ける」は「神」にかかるので「生きている神」ということです。死んだ者の神ではなく、生きた者たちに関わって下さる生きた神のことです。その生ける神の教会(エクレシア)を「真理の柱、土台」と呼んでいます。

 新共同訳は「信心の秘められた真理は確かに偉大」と訳していますが、「信心の秘められた真理」は分かりづらいです。文語訳は「敬虔の奥義」と訳しました。信心や敬虔さもなんとなく分かりますが、原意は「神を畏れること」です。「誰もが認める、厳粛な奥義は偉大」と言うことになるでしょう。The New Jerusalem Bibleでは「疑いなく、我々の宗教の不思議は、まことに深いものです」(私訳)と書いています。

 その信仰の根幹である不思議は、キリストが肉体をまとって目に見える姿で現れた、ということです。神学用語では受肉と呼びますが、私たちと同じ人として来られたのです。通常パウロなら、その後に十字架と復活を記しますが、ここでは略されて、キリストは今、霊において義とされています。キリストのご支配は、天と地の間に立つ天使たちに見られ、異邦人をはじめ、全世界で福音として宣べ伝えられ、一切の名に勝る名が与えられ、神の右の座について栄光を受けていらっしゃいます。つまり、私たちが聞いた福音が、地に降り、霊となって、天に着座されたのです。

 そのキリストが体をとっていらっしゃるのが教会です。神の秘められた計画が、ユダヤ人だけではなく、異邦人に及び、地上の全ての人を包む、信じる者たちの共同体が教会であり、そこに神の満ち満ちた様があると言うのです。今や教会は、信仰によって私たちの内に住んでおられるキリストにより、「神の住まいとなる」(エフェソ2:22)のです。

 ですから、私たちは、神戸布引教会を、一般のサークル活動や福祉活動団体のようには考えません。受付や献金、司会や奏楽、説教も含め、当番のように考えません。礼拝の場を「神の家」、信者の只中に生ける神が住まれる神殿で、イエス・キリストに最も良きものを捧げる場と考えます。

 私たちは、死んで体が灰になって終わるのはありません。復活して霊の新しい体が与えられ、永遠に生きる者とされます。地上に生まれる時と場所も知らなかった私たちは、霊において新しく生まれる状態も知りません。しかし、そうした神の国は、生きている間に知るべきもので、キリストの体である教会で信仰によって教えられるのです。説教を通して神の言葉を聞き、遣わされた牧師と選ばれた長老とともに群れが守られ、教会に仕える執事がいて、一人一人を支えながら、キリストの体が建てられていくのです。

 ヨハネ福音書2章で、イエス様は神殿で大暴れされました。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われたのは、貧しい人々の生贄として神が定めた鳩や家鳩を売り物にしてお金を取ろうとする人々に対してでした。神の宮にいながら、偶像を礼拝するのと同じになってしまいます。イエス様の「わたしの父の家」とは「神の家」のことです。まことの神が生きて働かれる場所、貧しい者、弱い者への配慮がなさレル。それが本来の神殿です。

 今、イエス様が来られたら、この礼拝をどうご覧になるでしょう。喜びと感謝が主に向かって捧げられているでしょうか。初めていらした方々、貧しい者たちが神に近づける教会なのか。私たち自身の生き方は捧げられているでしょうか。それが、パウロの言う「神の家でどのように生活すべきか」でした。

 こんな欠けだらけの者たちが、イエス・キリストによって罪を赦していただき、義とされ、新しくされて、その生き方を通して世にキリストを証ししていく。そうした私たちの生き様が礼拝を通して輝き出すようにと願うものです。

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