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2022年1月9日(日)主日礼拝説教  

  説教 「神の家」

              吉平敏行牧師 

  聖書  詩編 8章2〜10節

      ヘブライ人への手紙 3章1〜6節

 主イエスは天の御国については、たとえを用いて語られました。マタイは「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」という預言者の言葉を引用しています。山上の垂訓の冒頭にも「イエスは口を開き、教えられた」(5:2)と出ています。それは申命記8章3節の「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」を意図してのことでしょう。天地創造の時から隠されていた事柄がたとえによって語られる。神の御子イエスの口を通して、温もりのある人の言葉として、想像力豊かに語られていることが強調されています。

 信頼できる情報は体裁の整った活字による文書と思い込んでいる現代人にとって、想像を超えた世界はたとえによって伝達されることを教えています。今日の「神の家」もたとえです。キリスト者にはたとえであるとは思えないほど普通に聞こえるかもしれません。その「神の」という言葉が不思議な響きを持ちます。

 「神の家」は、旧約聖書のイスラエルの民が意図されていることは確かです。イスラエルの民は、モーセに導かれエジプトを脱出し、40年の荒れ野の旅を経て参ります。水がなければ、神は岩から水を流れ出させる。お腹が空いたと叫べば、天からマンナが毎朝降ってくる。肉が食べたいと言えば、うずらが飛んでくる。長旅をするための天幕、神を礼拝するための幕屋、健康を守るための食物規定、一定の秩序を保つための法や罰則。人々を10人、100人、1,000人のまとまりで指導に当たる長老制。こうした細やかな指針も一つの民族が荒れ野を移動して生きるために必要でした。

 神の家には、神を礼拝する幕屋がありました。そこに燭台、机、供え物のパンが置かれ、その奥に垂れ幕があり、さらに幕を隔てて至聖所があり、そこに金の香壇と契約の箱、マンナの入った壺、アロンの杖、契約の板があり、栄光の姿であるケルビムが箱を覆っていました。

 そのように記される「神の家」は、イスラエル民族が生きていた場であり、国家とか共同体などと呼ぶ抽象的な概念ではなく、誰もが想像できる「家」と呼べる存在でした。「家」という言葉に込められた、生きる場としての意味を味わいたいものです。

 ですから「神の家」と言っても、単なる比喩ではありません。ただ、本当の意味で「神の」家と呼べる天的な存在に比べたら、やはり比喩に過ぎません。新約聖書では、当時の幕屋は「天にあるものの写し」(9:23)と呼びます。「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません」(ヘブライ10:1)とまで書きます。

 こうして、旧約聖書は、神の救いに必要な調度品が揃った部屋のようで、新約聖書によって、その部屋に明かりが灯され、はっきり見えてきます。パウロはテモテに「この書物(旧約聖書)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(テモテ二3:15)と旧約聖書の重要性を書いています。神の民が、荒れ野においても、約束の地カナンにおいても、イスラエル王国になっても、永続性のある、神に導かれる家として続きます。本当の意味での「神の家」は継続しているのです。

 ヘブライ書は「この幕屋とは、今という時の比喩です」(9:9)と言います。旧約聖書の世界は事実ですが、今の私たちにとっては比喩として読める。しかし、旧約聖書の具体的な映像の広がりによって、天の真の神の国について、限りなく私たちの想像を掻き立てるのです。その想像は、決して根拠のないものではありません。

 今日の冒頭に、「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」とあります。大祭司イエスについて考えるのですが、その前にモーセを思い起こすよう勧めるのです。イエスのことを考えるにあたり、一つの民族を率いた、偉大な指導者モーセを思い浮かべるのです。彼は神の家に仕えた人物でした。しかし、その神の家を建てたのは神ご自身です。モーセは、その神の家に忠実に仕えた僕だったのです。私たちは律法によって、その神の家の全貌を概観します。それらも本物の神の家から見たら写しに過ぎないのです。

 では、実際に万物を支配しておられる神の家とはどういう存在になるのか。それは「神の国」として、神の主権の及ぶ領域で考えることもできますが、「神の家」と書かれる家という言葉には具体性があります。それはモーセのように、場所と時代に制約された一人の人物ではなく、神の御子イエス・キリストが治めておられる世界であり、そこで私たちは日々の生活を送り、安息日ごとに会堂に集まり、一人の神を礼拝します。それがモーセの時代から続く、神に導かれる民のあり方です。

 かつてのイスラエルは、律法を守ることによって神の家にとどまっていましたが、イエス・キリストを信じた新約の神の民は、ユダヤ人もギリシャ人もいる、男も女も、奴隷も自由人も、すべての人たちが、実に多様な生き方をしながら信仰によって一つになって歩んでいます。それが新約聖書の「神の家」です。そうした広がりの中で「神の家」を考えることが必要でしょう。

 パウロが「神の家でどのように生活すべきか」とテモテに書いたその時代に比べ、今はもっと複雑、多様です。私たちは、今の視点で「神の家」を聖書に照らして再検討する必要に迫られます。「神の家」を「生ける神の教会」として定義し直さねばなりません。

 それを、エフェソ書では、「使徒や預言者という土台の上に建てられて」おり、礎石がキリストご自身とされます。そのキリストが教会の頭となり、聖霊によってキリストの体である教会を建てるために、賜物によって人を遣わされます。そこに福音宣教者、牧者、教師がいます。そして聖霊によって神の子とされた信者が、一つ一つの石として積み重ねられていく。それが聖霊の宮となり、私たちが神の住まいとなるというのです。

 「神の家」は漠然としたものではありません。それはかつてのイスラエル民族の在り方に照らし、イエス・キリストを信じる人の信仰共同体と考えられます。ただ一つ、イエス・キリストを信じる信仰によって成り立つものです。

  それを「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」(3:6)と記します。

キリストは神の御子であり、神の息子が神の家を忠実に治めてくださっている。私たちに求められるのは、そのキリストに対する確信と希望の誇りです。神の家をお造りになり、今も治めておられるキリストが、大祭司として、私たちのために神にとりなし、赦しを乞い、また権威を持って私たちを導いておられる。私たちは、信仰によってその神の家に住む者たちです。

 アブラハムに主なる神は「さあ、目を上げて、この土地全体を見渡して御覧なさい」「さあ、この土地を縦横に歩いて御覧なさい」と言われました。イエス様が、私たちに求めておられるのは、遠慮しながら、モジモジしたような心定まらない態度ではありません。「確信」とは大胆さです。そして希望の誇りを持ち続けよ、と言われます。

 それをこう言っても良いでしょう。

  1. いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 (テサロニケ一 5:16〜18)

 私たちは「神の家」にいられることをどれほど喜び、感謝しているでしょうか。今こそ、「神の家」「生ける神の教会」について、聖書に基づき見直す時です。

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