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2022年1月16日(日)オープン礼拝説教(要約)  

  説教  「神の教えに生きる」

                   吉平敏行牧師​


  聖書  ヨハネによる福音書 7章14〜24節

 初詣に向かう多くの家族連れ。晴れ渡った元旦の朝、赤ちゃんからお年寄りまで、家族が楽しそうに神社に向かう姿を見るのはこちらも楽しくなります。大勢の人が、寒い中でも整然と参拝の順番を待っています。境内では甘酒が売られています。屋台も出て夏祭りの様相です。順番がくると、3列に並んで整然と段を上り、賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし、拝礼して降りていく。ある人はおみくじを引き、近くの木に結びつけて帰っていく。

 毎週、まことの神を礼拝するキリスト者が、その家族と共に、主の日に宮(会堂)に集うことをそれほど喜んでいるでしょうか。まことの神を知って拝むとは、どういう意味を持っているのでしょう。

  詩編122編の「都に上る歌」に、こうあります。

  1. 主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしは嬉しかった。・・・エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い、そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。そこにこそ、裁きの王座が ダビデの家の王座が据えられている。

 私たちは、神を礼拝する喜びを忘れてしまってはいないか。それは、私たちが神がどのような方であるか、わからなくなってしまったためではないか。歴史の中で練られ、整えられてきた礼拝が、集う者たちの心を満たしてきたことも事実です。神との生きた交わりがあって、礼拝が守られてきたのでしょう。

 今日、問題になっているのは、目の前の人イエスがメシアなのか、ということです。それは、イエス様の実の弟たちも分かっていません。こんな感じでしょうか。「兄貴、こんなガリラヤの田舎でこそこそやっていても人は集まらんよ。エルサレムへ出て行って、お弟子さんたちにやっていることを見せたらいい」と、今でも通用しそうな助言です。すると、長男は弟たちに「お前たちは祭りに上って行ったらいい。俺は行かない。まだ俺の出る幕じゃあないから」と言うのです。それは、兄弟たちも、イエス様を信じていなかったためです。イエス様にはお考えがありました。

 イエス様がエルサレムに上ろうとしなかったのは、命が狙われていたからです。しかし、イエス様は、その後、人目を避けて、エルサレムに上られます。ユダヤ人たちは、こんなにも有名になったイエスなる人物は一体何者か、ということです。一旦、イエス様が口を開いて語り始めるや、膨大な聖書の知識、律法学者らは、この人は学問をしたわけでもないのに、どうしてこんなに聖書を知っているのか、と驚くほどでした。その教え方は、学者のようではなく、権威ある者のようでした(マルコ1:22)。

 聖書を研究によって語る律法学者たちは、ラビAはどこどこでこう語っている。ラビBは、ミシュナーでこう書いていると、別の権威に頼って聖書を解説します。カルヴァンは、ルターは、バルトはと、そうしたよく知られた人々の名を挙げて語る、今日も似ています。私も時々そういう権威ある方々の名を挙げますが、それは自分の解釈に箔をつけるためです。しかし、イエス様は「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人に不義がない」と、仰る。これは実に手厳しい言葉です。

 イエス様は、わたしの教えていることは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えだ。その方の考えていることを行おうとする者は、わたしが教えていることが神から出たものか、わたしが自分勝手に話しているのか、わかるはずだ、と仰います。学者たちの話は、聖書の解説、説明に過ぎない。しかし、イエス様の話は、聖書の著者である、イエスを遣わされた父なる神の教えだ、というのです。教科書を書いた人とその教科書を教える先生とでは、どちらがより多く知っているか、です。

 しかし、その違いは、話を聴く側に現れます。父なる神の御心を行なおうと、絶えず悩み、苦心して、真理を探究している人たちがいます。自然科学、人文科学、社会科学、医学、法学、神学でさえ、科学的に普遍的な真理を探究している者たちにはわかるでしょう。家庭の料理でさえ、美味しさを極めようとしたら、いかに難しいかは実践している人たちが味わっています。それもまた、神の御心を行おうとする者と言えるでしょう。つまり、最も良いものを生み出し、互いに分かち合いたいと努力している人々には、イエス様の話は伝わります。信仰心がなくても、です。ただ、そのような方々は、四面楚歌とか孤立無援、奇人変人とまで言われるような立場に立たされます。

 イエス様はこうも仰います。

  1. あなたたちは、まだ私の父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。私を、父がお遣わしになった者として、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究していることは分かる。ところが、その聖書が私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、その真の命を得るためにわたしのところへこようとしないではないか。

  2. ヨハネによる福音書5章37〜40節

 聖書を読み、学び、説教を聞き、聖霊に導かれてイエス・キリストまでたどり着く。それは、イエス・キリストの御声を聞こうとするからです。イエスを遣わされた方、すなわちイエスの父なる神が教えられた教えをイエスが聞かれ、そのイエス様の言葉を聞くことで、神の言葉を聞くことになる。

その流れを妨げるのが「自分の栄光を求める」姿勢です。それは、神の栄光と人間が求める栄光とに違いがあるからです。この世の栄光、つまり成功を求める者は、自分の努力の結果としての栄光を語ろうとします。イエス様の弟たちの論理です。肩書きや評判で人を評価します。イエス様は「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」と仰います。

ユダヤ人たちは、イエス様の論理が理解できません。自分は律法を守っているし、ましてイエスを殺そうとなど考えていない。しかし、自分の栄光を求める論理は、語られる真理を拒み、語り手のイエスを排除し、それがイエスを殺すことになるという筋道が読めません。彼らはイエス様が現そうとする栄光ではなく、自分の栄光を求め、神の教えに背いているのです。

 その一例が安息日律法の解釈です。モーセの律法を破らないようにと、安息日であっても割礼を施す(作業、手術)が認められるのであれば、人を癒し、人を救うイエス様のわざは安息日でも許されて良いではないか、とイエス様は仰る。しかし、ユダヤ人はうわべしか見ないから、安息日にイエス様が足の不自由な人を癒し、神のみ心を行なったにもかかわらず、それは労働であり、律法を破ったとみなしたのです

 こうして、イエス様が、神が遣わされた方なのか、人を惑わす人なのか、人々は分からなくなっていきます。

 私たちが、今日聖書を読む、牧師を通して説教を聞く、それが神の言葉を聞くことになるのか、と問い直します。人々の評判を得て、信頼されている先生方が語れば神の言葉なのか。名も知られない教師の説教は、神の言葉と言えないのか。そうした区別こそ、人間が求める栄光ではないか。優しく愛しみに満ちた説教であれば心地よく、それは神の言葉であり、自分に厳しい説教だと到底受け入れられない。それはいつくしみ深い神の言葉ではない。それでは、私たちは、何によって教えられ、訓練されるのか。

 パウロはこう記します。

  1. わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

  2.                      テサロニケの信徒への手紙一2章13節 

 聖書を神の言葉として聞き、受け入れる人には、イエス様の言葉がそのまま神の言葉としてその人の内に留まり、その人にイエス様の心、父なる神の心が与えられるでしょう。また、イエス様が遣わした牧師・教師が語る言葉は、その人の言葉ではなく、その人を遣わしたイエス様の言葉であると信じるとき、神の命は正しく伝わります。

 毎週の説教でイエス・キリストのお考えを聞き取ろうとして聞く。そのようにして人の手による聖書の言葉が、イエス様の言葉、神の言葉として私たちに与えられます。このようにして、私たちは、聖書から神の言葉そのものを聞くことができるのです。

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