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2022年1月23日(日)主日礼拝説教  

  説教  神の義を知る

​              吉平真理教師試補


  聖書  イザヤ書 28章12〜18節

      ローマの信徒への手紙 9章30節〜10章4節

 主イエスは、「あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(ヨハネ5章39〜40節)と言われました。当時、聖書を熱心に研究し調べていた律法学者や祭司たちは、律法を破ることのないようにと639もの細則まで定めて人々を指導していました。それは、預言者イザヤの「命令に命令、命令に命令」「規則に規則、規則に規則」の言葉のとおりだったのです。

 律法学者たちの愚かさは、処方箋に記された薬の効能について細かく調べ上げながら、薬に取り替えず処方箋をそのまま飲んでしまうようなものでした。そして薬は、処方箋どおりに服用されてこそ役に立ちます。

 イスラエルが犯していた間違いはそういうものでした。なぜ間違ったのか。イスラエルは信仰によってではなく、行いによって義に達するかのように考えたからだ、というのです。

 10章1節から3節で、イスラエルがつまずき義とされなかった理由について9章30節から33節でまとめとして述べています。

 義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得たのに、幾世代にもわたって、神に義しくあろうと求め続けてきたイスラエルは、その律法に到達できませんでした。パウロは「なぜですか」(32節)と問います。彼らは、イエス・キリストを信じる信仰によってではなく、律法を行うことによって、神の前に義しいとされるかのように考えていたのです。それをパウロは「つまずきの石につまずいたのです」(32節)と説明します。

 次の33節はイザヤ書からの引用ですが、その前後をイザヤ書の二箇所から引用し、それらを合せています。前半はイザヤ書8章14節から、後半はイザヤ書28章16節からです。

  8章14節では

  主は聖所にとっては、つまずきの石

 イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩

 エルサレムの住民にとっては

 仕掛け網となり、罠となられる。

 このように「石」は否定的に描かれています。

 28章16節では、

 それゆえ、主なる神はこう言われる。

 「わたしは一つの石をシオンに据える。

 これは試みを経た石

 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。

  信ずる者は慌てることはない。」

ここでは「石」は肯定的に描かれています。

 イザヤ書の意図が異なる二つの節を一節にした、パウロの意図するところは、何だったのでしょうか。

 8章14節では、「聖所にとっては」「イスラエルの両王国にとっては」「エルサレムの住民にとっては」と、イスラエルの側から見たものとして書かれます。主が「つまずきの石」、「妨げの岩」、「仕掛け網」となるのです。つまり、人間の側から観た時には、主は、つまずきとなり妨げとなる存在として書かれています。一方、28章16節では、その主なる神が「わたしは、・・・据える」と言われます。今度は、神の側から観た時です。「一つの石」は、試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石、となるのです。これを信ずる者は慌てることがありません。その「一つの石」に含まれるねじれた関係をパウロは説きたかったようです。人間の側から観る視点と神の側から観る視点との違いが現れています。聖書の逆説(パラドックス)とも呼べる書き方です。

放蕩息子の譬え話もそうでしょう。一般的な親子の経験談からしたら、愚かな息子と彼を溺愛する呆れた父親の話でしょう。あるご婦人の、「こんなに甘やかすからこんな風に育ってしまうんだ」という言葉を思い出します。しかし、イエス様が伝えたかったのは、惜しみなく愛を表してこの息子を迎え入れる父親の存在です。家の財産を減らし大損害を被っても「死んでいたのに生き返った」と大喜びするほどに、息子を愛おしく思う父の心です。その命、その存在の価値を知っていてくれる、そういう父なのだと分かれば、人は父の元に帰って行けます。

 民数記21章の青銅の蛇の話もそうです。神とモーセに繰り返し逆らう民に、神は毒蛇を送られ、蛇に噛まれた者は死んでいきました。民は罪を悔いて、蛇を取り除いてくれるように願います。そこでモーセは、主の言葉に従って青銅の蛇を造り、旗竿の先に掲げます。そのとき主は言われました。「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」(8)そして、蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと生きたのです。

 この話の驚きは、「いのち」を得るために仰いだものが「蛇」だったということです。アダムとエバに罪を犯させ、神に呪われた、あの「蛇」です。しかも青銅の蛇ならば、十戒が禁じる偶像にあたります。それを「仰げ」と神が命じたのです。イエス様は、ユダヤ人の指導者ニコデモに、この蛇の話をなさいます。

モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。

それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

                                          (ヨハネ3章14〜15節)

 それから3年後、ニコデモは十字架上のイエスを見上げることになります。あの夜の言葉を思い出し、その意味するところを悟ったでしょう。十字架に架けられ、神に呪われ、人の目には罪人として処刑されたこの方が、メシヤ(油注がれた者)であったということを。

 こうした聖書の逆説(パラドックス)を超えさせるのが信仰です。聖書の奥義を汲み取れるのは信じるということだけです。

 ユダヤ人はこの逆説を理解しませんでした。それに心を痛め、パウロは9章の初めに自分の思いを綴ります。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがある」(2節)と。パウロも「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ3章6節)と自認しています。けれども、それは「正しい認識」に基づくものではなかったのです。

 パウロは、ユダヤ人の熱心が正しい方向に向かえなかった二つの理由を挙げています。第一に、神の義、原意では「神から来る義」を知らなかった、ということ。第二に、その神の義に従わず、自分の義を求めた、自分の義を打ち立てようとした、ということです。

 彼らの知らなかった「神の義」とは、神の与えてくださる義のことです。神が義であることが、私たち罪人のために死なれたイエス・キリストを、神御自身がイエスを死者の中から復活させたことによって示されたのです。未だかつて歴史に起こったことのない、人間の想像をはるかに超えることをなさった、ということなのです。その「神から来る義」、イエスを死者の中から復活させた神を信じる時に到達するものなのです。これ以外の方法では到達しません。必ずつまずくように、神ご自身が定められたのです。「見よ。わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない。」その義は、信じない者にとっては「つまずきの石、妨げの岩」であり、信じる者には、失望することがない岩となります。

 信心深い人々は、神は偉大で正しくきよいけれども、自分はそうではない、と知っています。そこで、神の前に相応しくありたい、聖くありたいと努めるのでしょう。そうした熱心が、いつの間にか神を求める人々の罠になるのだと思います。ですから、私たちも問われるのです。私たちは、何をもって義とされたのか、義の根拠はどこにあるのか、ということです。

 4節で、キリストは律法の目標(ゴール)と言われます。律法が目指した、行き着く先のゴールがキリストだと言うのです。律法に無縁の異邦人であっても、「信仰によってキリストに結び合わされる」なら、「律法の義」は全うされます。こうして得られる義が「信仰による義」です。「それ(神の義)は、初めから終わりまで信仰を通して実現される」(1章17節)とあります。この信仰の始まりは、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって」(10章17節)です。ですから、私たちはまず聞かなければなりません。「キリストの言葉」、すなわち聖書のみ言葉を聞き、その中で語っておられる聖霊に聞き続けて生きる中に、この義は全うされます。私たちはそのように信じました。今、義としていただいていることを感謝しましょう。

 この厳しい時代を生き抜くのに、特別の体験や奇蹟を求める風潮が高まるで、本当に価値のあるものを守っていきましょう。体験や感覚、感情に勝って、み言葉に聞き、そこに深く拠り頼んで育つ信仰を大切にしていきましょう。それは、「主を信じる者は、だれも失望することがない」という神の約束を伴うものです。

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