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2022年1月30日(日)主日礼拝説教  

  説教  生ける神

             ​吉平敏行牧師 


  聖書  詩編 95章2〜11節

      ヘブライ人への手紙 3章7節〜19章4節

 聖書は奇妙な書物です。「神はこう言われる」という神の語りを、活字に記します。かつては、そう語る神の声をモーセは聞きました。あるいは、人々は主イエスの肉声を聞きました。それを今、私たちは聖書を母語で読んでいます。しかし、神の声が聞こえるわけではありません。私たちは聖書を読みながら、どうやってイエスご自身の声が聞こえるのか、と問われます。

 日本キリスト教会信仰の告白では、「御言葉のなかで語っておられる聖霊」と書いています。その点で、今日の7節は面白い書き方をしています。「だから、聖霊がこう言われるとおりです。」元の詩編95編7節では「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」です。その「主の声に聞き従わなければならない」をヘブライ書では「聖霊がこう言われる」と言い換えています。

 詩編95編8節の「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑なにしてはならない」をヘブライ書では「荒れ野で試練を受けた頃、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」と書いています。そのメリバやマサのできごとは、出エジプト記17章に記されています。

 そのレフィディムという場所で、飲み水がなかったので、民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と要求したのです。モーセが主に懇願すると、主は、ナイル川を打った杖で岩を打てと命じられる。そして、岩を打つとそこから水が流れ出したのです。

 マサとは「試す」、メリバとは「争う」という意味です。詩編の作者は、マサとメリバの地名をあげて「あの日、荒れ野のメリバ(争う)やマサ(試す)でしたように、心を頑なにしてはならない」と書いたのです。ヘブライ書の「荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように」の「試練」は、大変な時を通っているという意味ではなく、「神を試した」という意味です。彼らは「『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試した」(17:7)のです。それが神を怒らせました。

 パウロはこう説明します。

  1.  皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。

  2. コリントの信徒への手紙一10章3〜5節

 私は、「霊の声は聞こえない」と申しましたが、7節以降は、聖書が「聖霊の言葉」として書いています。私たちは、この聖書を読みながら、聖霊が語っていると読むことができるので。

 2004年に亡くなったフランスのユダヤ人思想家、ジャック・デリダによって広く知られるようになった「脱構築」の考え方があります。従来では「声や話し言葉」が「文字、書き言葉」よりも優先すると考えられましたが、デリダによって優先順位は逆転され、文字や書き言葉から、根底に意味する言葉を見出せると考えられるようになりました。書かれた文字から、より現実的な意味を読み取れるとことになります。つまり、活字から、その当時の意味を活性化させることも可能となります。

 ヘブライ書は、まさにかつて主が語られた言葉を、今日に呼び起こそうとしています。私たちにとっての「今日」を展開します。そこに「生ける神」が、聖霊によって、今日という日に私たちに語られるという神の言葉の流れができます。

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で神を試して、神に反抗した時のように、心をかたくなにしてはならない。

 イスラエルは、海の水が分かれ、乾いた地を歩いて渡った経験を通っています。天からのマナを食べ、飛んでくるうずらを食べ、あらゆる方法で神が守ってきたことを知っています。にもかかわらずまだ信じようとしません。そしてレフィディムには飲み水がありませんでした。そこで彼らはモーセと争い、モーセが杖で岩を打つと、その岩から水が流れ出たのです。それでも、信じようとしない。神がモーセを指導者に立てて民を導くという、神の導き方を知りませんでした。もし、神が民のわがままに応じるとしたら、もはや彼らの神ではなくなります。そういう神の存在に対する民の挑戦、それが神を試すことでした。

 その根本にあったのが、心でさまよい、神の道を知らなかった、ということです。信じて良いのか、信じてはいけないのか、モーセが語る通りに進んでいって良いのか、自分が良いと思う道を進んでいった方が良いのか。そんな定まらぬ心に神は怒って「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」、乳と蜜に喩えられた豊穣の地カナンに入らせない、と宣言されたのです。

 そこでヘブライ書の「注意」(12節)は、新約時代の裁きが「生ける神から離れてしまう」ことになるからです。今はキリストに連なっていても、今日という日に、心を定めないと、そのままではやがて生ける神から離れてしまうと警告するのです。

 「生ける神」の反対は、「物言わぬ神」、偶像の神です。注意しないとそちらの神へと道を逸れていってしまうのです。

 そこで著者は同じ励ましを繰り返します。3章6節では「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」14節では「最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となる」です。「最初の確信を最後まで」というより、「確信の最初を最後まで」という方が良いでしょう。信仰が何かも知らない、初めて教会に来た、説教を初めて聞いて、信じてみようかと思った。・・・その最初の思いを最後まで持ち続けなさい、というのです。

 「信じる」を、特別な決心のことのように思いがちですが、信仰は自分の思いを探って、自分の心を覗いて吟味することではありません。根が張り出したのに、根っこがついたかどうかと、苗を鉢から引き上げて、調べるかのようです。それでは、いつまで経っても根付きません。信じようと思った、その最初の思いを最後まで保つだけなのです。素朴で素直な信仰は強いのです。

 神は、だれを40年間怒っていたのでしょうか。「罪を犯して、死骸を荒れ野にさらしたものに対してではなかったか」と問います。「荒れ野にさらした」は「荒れ野に体を沈めた」が原意で、該当する出来事が民数記14章に記されています。

  1. 主はモーセとアロンに仰せになった。

  2. 「この悪い共同体は、いつまで、わたしに対して不平を言うのか。わたしは、イスラエルの人々がわたしに対して言う不平を十分聞いた。彼らに言うがよい。『主は言われる。わたしは生きている。わたしは、お前たちが言っていることを耳にしたが、そのとおり、お前たちに対して必ず行う。お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。・・・わたしが手を上げて誓い、あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない。』」

  3. 民数記14章26〜30節

 私たちが信じる神は生きておられますから、私たちが話す言葉、聞く言葉、ことごとくご存じです。その生ける神から、切り離されることになるかどうかが、「今日という日」にかかっているのです。そして、私たちは、「今日という日」に互いに励まし合いながら生きるようにと勧められます。

  19節最後の「わかる」は12節の「注意しなさい」と同じ言葉です。じっと見て、その意味を理解することです。自分に言われていることの意味が分かることが、注意していることになります。

 生ける神が喜ばれるのは信仰です。信仰だけが神を喜ばせます。そして、神は、最も良きものを備えてくださっています。

 イエス・キリストの十字架によって私たちを罪から贖ってくださった方が、どれほど私たちを愛してくださったことでしょうか。海の水を分けることも、岩から水を出すことも、どんな奇跡も、ご自分の独り子を捨てる愛に勝りません。私たちは、イエス・キリストの十字架によって、神が愛であると知り、信じたのです。ただ信じた。その初めの思いを保ち続けること。そして、ここまでの道を振り返り、今日から、新しい思いで出発することです。それが、信仰生活を続ける秘訣です。

 そこで、ヘブライ書の著者はこう勧めます。

 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。ヘブライ人への手紙12章1〜2節

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