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2022年2月6日(日)主日礼拝説教  

  説教  真の安息に入る

​                吉平敏行牧師


  聖書  ヨハネによる福音書 8章31〜38節

      ヘブライ人への手紙 4章1〜7節

 キリスト者は、イエス・キリストを信じて罪の奴隷状態から救い出され、永遠の命をいただいた者です。しかし、救われた後に目指すものは何か。それが「今日」の課題です。

箴言に「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(27:1)とあります。過去に手を触れることはできません。将来は未知。もし、自分が関わり、わずかでも方向を変えて、希望のある道を選ぶとすれば、今日という日になります。

 この手紙は、「今日という日」に目を留めます。3章7節に「今日、あなたたちが神の声を聞くなら」、13節で「『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」と勧め、15節で再び「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」と、「今日という日」を繰り返します。「今日」、神はどのように語りかけるのでしょう。

 ホロ・コーストを奇跡的に生き抜いたユダヤ人精神科医のフランクルは「私たちは、問うのではなく答えなければならないことを自覚しなければなりません。人生そのものが一つの問いなのです。その問いに答えることができるのは、私たちが私たちの人生に責任を負うことによってだけなのです」(V.E.フランクル「苦悩する人間」春秋社 p.218)と書いています。

  今日という日の出来事が私たちに問うてきます。なぜ、今、ここにいるのか。今、何を求めてここにいるのか。それに対して答えるのです。年が若くても、年老いても、そういう人生の問いへの答えの思索を積み重ねる人がいます。

 聖書はこう答えます。「わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」(出エジプト記33:22〜23)私たちに見えるのは、神の後ろ姿だけ。今とは、神による出来事の流れとして考えられます。

 著者は4章で、「神の安息にあずかる約束がまだ続いている」と言います。神の安息はまだ開かれている。だから取り残されてしまったとは思わないことです。「気をつけましょう」と聖書は訳しますが、ここは「恐れようではないか」という強い勧めです。著者は、キリスト者には安息が与えられているのだから、かつてのイスラエルのように安息に入れない者が出てはならない、と勧めます。

 かつてのイスラエルもクリスチャンも、神からの良い知らせを聞いています。イスラエルは、その知らせを神の声として聞きました。直接聴くのは信仰ではありません。しかも、彼らは聞こうとはせず、反抗したのです。私たちに神の声は音としては聞こえません。聖書で「神の言葉」を読むのです。それも「信仰によって」結びつけてです。私たちは福音を聞いています。しかし、神の安息に入っているかどうかは別です。私たちも、信仰によって結びつけることが必要です。

 では、「安息」とは何か。安息は、神が天地を創造された、その時にすでにあったのです。まだその安息に入っていない者のために、神の安息が残されている、と言うのです。

 イエス・キリストを信じて罪から解放され、神の安息に入ったのであれば、本来は自分の業を終えて休んでいるはずです。もし、まだ休んでいないとすれば、その人のために、安息は残されている、と言う。これは、キリスト者のための希望です。まだ救われていないのではありません。もし、本当の安息を得ていないとすれば、まだ道(荒れ野)の途上ですよ、その先に、安息は残されています、というのです。

 人間は、神の戒めに背いた者、罪を犯した者として、エデンの園を追われた者です。

主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

                                             創世記 2章23〜24節


 「東のケルビムと、きらめく剣の炎」の意味は不明ですが、「命の木に至る道」が塞がれたことは確かです。体は生きていても、命の木に繋がっていなければ、死んだ者です。主イエスが、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)と言われた意味も分かってきます。

 永遠の命は目に見えませんが、地上で「神の安息」はいただけます。聖書で「安息日」が強調されるのも、そういう理由です。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・・六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。                        

出エジプト記 20章8〜11節

 ユダヤ人たちは、この「安息日」を間違って理解していました。安息日は人間のために設けられたのです。

 荒れ野においけるマナも、その安息を知るための訓練の一つでした。六日間は毎朝降り、六日目にはいつもの二倍量を集める。マナは、翌日まで取っておくと虫が湧いて臭くなってしまいますが、六日目は、二倍量を集めて取っておいても臭くもならず、虫も付きません。彼らは、七日目に前日のマナを食べることができたのです。

 ところが、民の中には、七日目にも野に出掛けて、探そうとする者もいました。主は、モーセに言われます。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。」(出エジプト16:28〜29)

 神は休めと命じておられます。私たちの神は「休め」と命じる神です。そういう大切なことを聞かずに、皆「そんなことを言っていたら生活できない」などと叫ぶのです。神は天地を創造されて、七日目にご自分の業を終えて休まれました。その日に人も休む。そうすれば自分の下で働く奴隷も休むことができる。しかし、人間は聞こうとしない。労働の苦しみは増すばかりです。クリスチャンにとっても、日曜日に礼拝に来ることが「せねばならない」業になってしまっていることはないでしょうか。

 神の約束の地カナンは「乳と蜜の流れる地」に喩えられました。しかし、イスラエルはほとんどが荒れ野で死んでしまう。モーセの跡を継いだヨシュアによって、次世代がカナンに入ります。しかし、そこに本当の安息を得たわけではありません。

 こうして、いつの時代も、神の安息に入れないで取り残された民がいるので、神は、ある日を定めて、「今日という日」に語られます。

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。

 さて、私たちにとっての「今日」です。私たちは、かつてイエス・キリストを信じ、その方の道を通って、命の木に至ることができたのです。そこに神の安息を見出しました。しかし、その安息を得ていないとしたら、まだ道半ばです。それでは勿体ない。

 もし、イエス・キリストを信じながら、まだその安息について知らない、知らなかったのであれば、今日、もう一度、聞きましょう。もう一度信じ直せとか、信仰が足りないから聖霊を受けよとか、イエス・キリストを信じるだけでは不十分だ、という、救いの二段階を説いているのではありません。天地を創造された時に神が設けられた安息にいること、その神と共にいることが、イエス・キリストによって実現しているのです。

 復活された主は、弟子たちの真ん中に立たれて「あなたがたに平和があるように」と言われました。その日、その場にいなかったトマスのために、主は、もう一度現れて、再び言われます。「あなたがたに平和があるように。」トマスは、もう一度、自分のために現れてくださった主イエスに「わたしの主、わたしの神よ」と告白します。主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と言われました。

 主は、その「平和(平安)」を得ていない者にもう一度、語りかけてくださいます。信じる者は幸いです。

 主は、まだその安息を得ていない者のために「今日」という日を設けてくださっています。心をかたくなにせずに主のみ声を聞きたいと思います。

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