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2022年2月13日(日)主日礼拝説教  

  説教  生ける神の言葉

​                吉平敏行牧師


  聖書  申命記 27章1〜8節

      ヘブライ人への手紙 4章8〜13節

 「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです」(4:9)という箇所は、二つのことを考えさせます。

 一つは、私たちキリスト者は、イエス・キリストを信じて救われていますが、救いはそれで終わりではないということ。もう一つは、その安息は「神の民のため」、既に救われている人たちのための安息であるということです。

 こうした問いかけに、いくつかの考えが湧き起こります。一つは、イエス・キリストを信じただけでは本当の喜びは得られない。聖霊をいただき、聖霊に満たされることで、喜びは溢れてくる、クリスチャンには次の段階がある、とする考え方。もう一つは、教会がキリストの体であるから、教会に連なることが救いであり、実感のあるなしにかかわらず、教会に所属していることが救いであるとする考え方です。それぞれに欠けているのは、「神の民」すなわちイエス・キリストを信じた人のための「安息」が残されている、という考え方です。旧約聖書の「安息日」ではなく、「安息日の休み」という特殊な言葉で、旧約聖書の「安息日」に相当する「神からの休み」が残されているのです。ヘブライ書は「この安息に与るように努力しよう」と呼びかけます。「休むために努力せよ」とは、努力して得る休みとはどういうものでしょうか。

 体操の内村航平選手が引退表明したインタビューに「ゾーンに入る」という言葉がありました。「ゾーン」とは、集中力が非常に高まり、周りの景色や音などが意識の外に排除され、自分の感覚だけが研ぎ澄まされ、活動に没頭できる特殊な意識状態だそうです。相当激しい運動状態ですが、疲れを感じず、雲の上を動くような軽々とした感覚なのでしょう。努力を重ねた一流のアスリートが経験し得る世界です。

 パウロはこう言っています。

  1.  神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

  2. コリントの信徒への手紙一 15章10節​

 実際に自分は多く働いた。しかし、それは、自分ではなく神の恵みである。クリスチャンには、そういう「ゾーン」があるのか、と思わされます。

 では、神の言葉は「精神と霊、心の思いや考え」を切り分け、聖書に沿ってキリスト者をそこまで導いてくれるのでしょうか。

 この「精神」は、「魂」「心」とも訳されます。言葉の違いは感覚的に分かります。そういう視点から、聖書の「愛」を考えてみます。果たして、私たちが使っている「愛」は、聖書が教えている「愛」なのか。「愛」を使いながら、私たちが知る「恋」であったり、「思慕」であったりしてはいないか。

 批評家の伊藤整が次のように述べています。

「我々一般日本人の目には、あの日本人のクリスチャンたちのあり方は、実に多くの偽善性によって疑わしいものに見え、演戯的なわざとらしい祈りや懺悔の習慣によって非現実的な宗教と思われている」(伊藤整「近代日本における「愛」の虚偽」)

 これは、キリスト者に向けられた批判と受け止めてよいでしょう。そして伊藤は、「我々は恋と慈悲との区別を知っている」と言います。

 「恋」と「慈悲」との違いは分かる。そこから、「愛という言葉を優しい甘美なものとしてその関係に使う場合にも、我々は『恋愛』として限定する」と言います。恋愛は感覚的にも分かる。しかし、問題は、「恋愛」という感覚で「愛」を使っているのではないか、というのです。

 彼の説明は、こうです。「神の存在を前提としてのみ成立し得る『愛』によって説明してきたこの(明治初期からの)百年間に、異教徒の日本人の間に多くの悲劇が生まれた。」さらに「愛という言葉のキリスト教的な祈りと、不可能な道徳への反復的努力のないところで、愛という偽りに満ちた言葉を使うな、と言っているのである」「我々は、『愛』を輸入した。しかし、祈りも懺悔も、持参金も、十分なる夫の収入も輸入しなかった。」まことに厳しいです。しかし、よく読むと「愛という言葉のキリスト教的な祈りと、不可能な道徳への反復的努力のないところで」と言っていますから、私たちの努力のなさを指摘しているかのようです。

 確かに、私たちも「愛」よりも「慈しみ」の方が体に馴染むと言えるでしょう。伊藤整は、キリスト者が使う「愛」は、日本人一般には「同情、憐れみ、遠慮、気遣いというもの、最上の場合で慈悲というようなものとしてしか実感されない」と言うのです。私たちが「互いに愛し合いなさい」と言っても、その「愛」は「同情、憐れみ、遠慮、気遣い」に置き換えられている。聖書に基づく、厳しさを伴う「愛」を語ろうものなら「それは無理です」「そんなことは理想です」と、直ちに拒絶反応が現れる。それは、伊藤が指摘する、「愛」を「恋愛」のごとき実感として受け止めてしまう傾向からくるものでしょう。

 伊藤整は、ここまで分析をしたのですが、彼自身が答えを見出せたわけではありません。彼は次のような結論を持って終わります。

「我々を実在に触れさせる認識法としては、仏教系のものとしてゼロ即ち無または死の意識で実在を認める方法がある。それを私は我々の劣れるところとは必ずしも考えない。」

 結局は、実感こそ実在であるというような世界に帰っていっています。しかし、私たちにしても、聖書の次の言葉に通じるものがあるのではないでしょうか。

  伝道者は言う。空の空、空の空、いっさいは空である。

伝道の書 1章2 節(口語訳)

 それは、平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」を思い起こさせます。私たちの体に馴染むものが、実感として実在する。私たちキリスト者は「愛」を理解し、自分のものとしているのでしょうか。

 では、私は、伊藤整氏の批判にどう答えられるのか。私は、氏の「我々は、『愛』を輸入した。しかし、祈りも懺悔も、持参金も、十分なる夫の収入も輸入しなかった」という一文に、処方の可能性があるとみました。「祈りと懺悔と持参金」は「祈りと悔い改めと献金」と言い換えて良いでしょう。「祈りと悔い改め」は賛同いただけるでしょう。しかし、「献金」となると、途端に反対が起こります。ですから、礼拝では「ご用意のない方は結構です」と言って来ました。献金の趣旨をご存じない方にはそうお伝えするのが良いでしょう。

 信仰を心の問題として抽象的に考える方々の中に、献金を嫌う方々が多いようです。献金を会費と考える方もおられます。「牧師が献金の話をしたら、信徒は来なくなります」と役員から言われたこともあります。献金の勧めは一番難しい話です。これが生涯連なる大切な教会、まさに命の糧をいただく自分の教会と考える人たちは、そうは考えません。

 ある年に開催された全国長老会議で、お一人の長老が「教会に2〜3のクリスチャンホームがあれば立派に立っていける」と発言され、その場の空気が引き締まった時がありました。教会が立つか倒れるかは会計の計算ではありません。信仰に立つクリスチャンホームが起こされていくことです。教会が本来の信仰を取り戻せば子供たちは戻ってきますし、人々は教会に期待を寄せます。

 そのために、私たちは、祈りと悔い改めと献金をもって、「愛」を偽りなく形に現していきたいのです。情緒的な恋愛や思慕、周囲への気遣いとしての「愛」ではなく、実質の伴う、イエス・キリストによって罪から贖割れた者として、その愛を行える群れでありたいと思います。

 最近、教会に無心する方が多くなってきました。こうした厳しい状況にあって、私たちは神からいただいた恵みを分かち合いたいと思います。私たちのささやかな思いと行いを、神戸布引教会の愛として現したいと思います。そういう趣旨から「マナの箱」にご協力いただきたいと思います。ささやかですが、私たちの素直な思いです。そんな、信じ始めた頃の素直な気持ちを取り戻すとき、そこに信仰がよみがえり、神の安息が生まれると信じます。そのために努力をしていきたいと思います。

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