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2022年2月20日(日)オープン礼拝説教(要約)


  説教 だれの声を聞くのか

                 ​吉平敏行牧師


  聖書  ルカによる福音書 16章19〜31節 

 イエス様の譬え話は、注意して読む必要があります。たとえば、「陰府」が、炎が燃える苦しい場所とあるから、やはり地獄はあったのか、とか。先祖は供養しないとたたるかのように聞いていたけれども、先祖は死んでから自分の身内を心配するのだ、といった解釈です。そのように勝手に解釈してはなりません。

 この話は3幕からなります。第1幕は、金持ちとラザロの生前の生活(19節〜22節)。第2幕は、死後の話で、アブラハムのすぐそばにいるラザロと陰府の苦しみの中からアブラハムにお願いする金持ち(23節〜30節)。最後はアブラハムによる宣告です(31節)。

 金持ちは、「毎日ぜいたくに遊び暮らして」(19)いました。毎日、盛大な宴会を開いては人を招いていたのです。金持ちは寛大で気前もよく、多額の施しをし、その名も知られていましたが、ここには「金持ち」としてしか書かれていません。

 一方、その豪邸の門前に、一人の貧乏人がいました。その名はラザロ。金持ちが宴会を開く度に大量の残飯が出るので、彼は門前で暮らしていました。そこに野良犬もやってくる。ラザロはできものがあって、野良犬がそのできものを舐めていたというから、惨めです。箴言の「金持ちと貧乏な人が出会う。主は、そのどちらも造られた」(22:2)の言葉どおりです。

 ある朝、門前に冷たくなったラザロの遺体がありました。あたかも粗大ゴミのように運び出され共同墓地に葬られました。一方、金持ちも死にました。その葬儀は盛大でした。棺は花で飾られ、笛や琴、弔いの音楽も奏でられ、多くの人々に見送られました。墓で祭司が祈ります。「どうか、われらの父アブラハムと共に、安らかに眠り給え。」こうして、第1幕は終わりました。

 二人とも葬られ、肉体は土に帰っていきましたが、ラザロの方はアブラハムの宴会に直行、金持ちは「葬られた」と書かれています。金持ちの魂は肉体と共に陰府に、ということでしょう。その陰府で、金持ちは悶え苦しんでいたのです。

 さて、第2幕。炎の中で苦しむ金持ちが浮かび上がります。ところが、舞台奥には肌がすっかりきれいになったラザロが、絹の衣を着て、アブラハムと会食をしています。イエス様が「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(マタイ8:11〜12)と言われたとおりです。

 その時、金持ちが叫びます。「父アブラハよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこし、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。」(24節)金持ちは、死んでも上下関係が通用すると思っていたようです。そこで、アブラハムは言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良い物をもらっていたが、ラザロは反対に悪い物をもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」(25節)

 アブラハムは、淡々と事実を述べます。生きている間、それぞれが、そうやって暮らしていた。信仰は問われません。生前がそう定まっていたというなら、死後そう定められたとしても文句が言えません。このアブラハムの説明は、納得がいきます。26節によると、金持ちとラザロとの間には越えられない大きな淵があって、行き来できません。

 そこで金持ちは、5人の弟たちを思い出します。「父よ。ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」(27〜28節)もし、こんなことになると知っていたら、ラザロを労ったろうに。自分は手遅れだ。ただ、弟たちにはこの事実を知らせたい。ならば、ラザロを弟たちのところへ送ってもらおう。そして、第2幕は終わります。 

 第3幕が開きます。今度は、スポットライトはアブラハムに当たっています。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)。すると、金持ちは反論します。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」(30節)。もしもラザロが復活して弟たちのところに現れて「あなた達の兄は炎の中で苦しんでいたよ、そして、弟たちのところに行って『聖書に書かれたことは本当だから、神を恐れて生きない』と言ってくれと頼まれた」と言えば、弟たちは悔い改めるでしょう、というのです。死人の復活のように、とんでもない奇跡でも起これば、神を恐れるようになるかもしれない、というのです。

 そこで、アブラハムの厳かな声が響きます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」(31節)

 この劇を見終わった人々はどう感じたでしょう。人々は、改めて律法と預言者を見直したことでしょう。死んでからでは遅い。生きている間に「悔い改め」のチャンスは与えられている。

 この話は「金に執着するファリサイ派の人々」(14節)に語られたものでした。彼らが、この話の金持ちに喩えられていたのです。

 アブラハムの最後のことばの「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」には二つの仮定法が含まれます。一つは事実に基づく原因と結果で、彼らは「モーセと預言者」の教えを聞かなかったので、「彼らは聞き入れはしない」という結論になります。もし、この高さから落ちたら、怪我をする、という仮定法に似ています。

 もう一つの「たとい死者の中から生き返るものがあっても」とは、現実には起こりそうもない仮定をします。「もし、私に羽が生えていたら、空を飛べるのに」というような使い方と同じです。もし仮に、それほどのことが起こったとしても、「彼らは聞き入れないだろう」というのです。

 ラザロの名前はヨハネによる福音書11章に出ています。死んで墓に埋葬されて4日目。イエス様の「ラザロ、出てきなさい」の一言で墓から出てきます。ところが、死んだラザロが復活したとき、祭司長たちはラザロを殺そうとします。それほどの奇跡が起こっても、彼らは信じようとしませんでした。

 多くの方々が、もし、驚くほどの奇蹟が起こりさえすれば信じる、と言われます。しかし、そういう奇跡が起こったとしても、その人々は信じないでしょう。神を信じるかどうかは、奇蹟の大小ではなく、その人の心にあるからです。心の頑なさが問題なのです。

 この譬え話から、私たちが学ぶことは何でしょう。

 それは、今、どうしてある方々には住むところがなく、私たちには住む家があるのか、という問いにもなってきます。その方々は、なすべき事をしなかったからそうなっているのか。私たちが何か特別なことをしたから、こうなっているのか。今はそうなっているとしか、説明できません。とすれば、死後について、そう定まっていると言われても、文句は言えません。だから、主イエスは、悔い改めなさい、と言うのです。そういう、神の基準が現されたからです。

 この箇所を読んで、貧しい人々に心を向けるようにしようと思うのは良いことです。そうした方々に、私たちの持てるわずかでも分けてあげられたら良いでしょう。

 しかし、この譬え話で、私たちに求められているのは、イエス・キリストが死者の中から復活し、福音が語られているのだから、悔い改めてイエス・キリストを信じなさい、ということです。

 この金持ちが、弟たちを思って願ったことが、今、私たちに福音によって知らされています。私たちは、罪と罪過の中に死んでいた者です。それが、イエス・キリストの十字架の死と復活により、イエス・キリストを信じるだけで罪赦されて、救われるのです。お金のあるなし、立場のあるなしを誇るのではなく、イエス・キリストを知っていることが誇りとなります。それが救いであり、そこに安心を得るのです。

 今、生きている間に、イエス・キリストの福音を聞き、罪赦されて、神と共に歩く者にしていただきたいと思います。

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