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2022年2月27日(日)主日礼拝説教


  説教  誰が義とされたか

                 吉平真理教師試補


  聖書  ミカ書 6章6〜8節

      ルカによる福音書 18章9〜14節

 私たちは皆、自分の考える「正しさ」、自分が認識し得る狭い「善」を引き合いに、物事の善し悪しを語り、自分の正しさを主張し、他の人を批判し、人を見下すことすらあります。自分が主張する善が間違っている可能性も、また自分の善が他の人には悪となることすらあるのに、その局面に立つと考えが及びません。そうした人間が考える善悪の判断の危うさは、創世記3章の人間に罪が入った時にまで遡ります。

 ですから、イエス様は「善い」という言葉に対しても敏感でいらっしゃいました。今日の後に続く18節で、ご自分を「善い先生」と呼んだ金持ちの議員に対し、「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(19)と即座にお答えになっておられます。本当の善、だれにとっても善いことを知っておられるのは、神お一人なのです。

 さて、今日の箇所で、「自分は正しい人間だとうぬぼれて」いる人々に、イエス様は何を教えたいと思われたのでしょうか。結論から言えば、14節の


  「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」


ということになります。これは聖書全体を貫く考え方です。この福音書の著者ルカも、1章のマリアの讃歌から始まって(1:51〜53)、繰り返し「思い上がる者」を低くし、「身分の低い者」を高く上げ、と記します。14章11節では、この14節と全く同じ言葉が記されています。


  「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」


 人が何を正しいと考え、どんな善を選び、善い行いを積んだとしても、これは、人がどんな反論も許さない「神が定めたルール」なのです。

 たとえ話を見てまいりましょう。

 二人の人が神殿に上って来ました。神に、祈りを捧げるためです。

 一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人です。社会的地位も信用、人々の好感度も、祈る姿も内容も、二人は対照的でした。私たちは聖書からそれぞれの社会的立場や問題点を知っていますから、どちらの祈り手に軍配があがるかを予想するのは難しいことではありません。しかし、当時のその場にいる人たちにとって、イエス様の判定は、おそらく「ドンデン返し」とも言える、思いがけないものだったでしょう。

 ファリサイ派の男は、神殿にまっすぐに向かって立ち、心の中で祈りました。

  1. 神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。

 彼の感謝は、「ほかの人たちのようではない」こと、盗人でも、ならず者でも、姦淫する者でもなく、徴税人でもないことを感謝したのです。こんな呆れた祈りが、神への感謝なのだろうかと思うのですが、この祈りとよく似た祈りが、ユダヤ教の資料の中に伝えられています。例えば「田舎者でないこと、異邦人でもなく、女でもないことを感謝する」という祈りなどです。

 男の祈りは続きます。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(12節)これは、律法が求めること以上のものでした。彼は努力しているのです。毎週月曜と木曜の2度の断食をし、十分の一は定められた分だけでなく、全収入に対する分を献げました。食物や食事に対する欲も、金銭欲も自制できたのです。そういう自分であることを感謝していたでしょう。律法の要求以上にしている善行は、彼の誇りと自信になりました。自分の善行に酔っているかのようです。「高ぶり」は、知らず知らずのうちに陥って、自分では気付くことができないものになります。

 もう一方の徴税人の祈りは、全く違いました。当時、人々は目を見開いて天を仰ぎ、両手を挙げて祈っていたようですが、徴税人は聖所から遠く離れて立ちます。それでも、自分を恥じ入るあまり、目を天に上げようともしませんでした。そして彼は自分の胸を、無念でならないとばかりに打ちながら言いました。


  神様、罪人のわたしを憐れんでください(13節)。


 この「憐れんでください」の「憐れむ」は、本来、「罪を贖う供え物」を指す言葉で、贖っていただくことを乞う言葉です。ですから、彼が意図したのは憐れみを乞う以上のものでした。「罪人のわたしを憐れんで、贖ってください」。悔い改めと罪の赦しを乞う祈り。誇れるものなど何もありません。ほかの人のことなど気にする余裕もありません。彼は胸を叩いて悔いの深さを表します。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」こうして、徴税人はへりくだって神との正しい関係の中に自分の身を置いているのがわかります。赦していただく側として、神に捧げるにふさわしい祈りを、この徴税人は捧げたのでした。

 イエス様はこう言われました。

  1. 医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。

  2. ルカによる福音書7章31、32節

 神は両者の祈りをお聞きになり、その心をご覧になり、判定をくだされます。

 神に受け入れられ、義とされて家に帰ったのは、徴税人、この人でした。イエス様は「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」と言われ、その理由を宣言されます。


  だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。


 自己を高めるのに熱心なファリサイ人は、神の律法を超える善行をしながらも、義とはなり得ませんでした。なぜでしょう。律法の教える最も重要な掟の一つ、「隣人を自分のように愛しなさい」を実行しなかったのです。しかも、他者との比較の中で「自分は正しい」とみなし、神の前でもその正しさを披露しました。神に感謝は捧げましたが、彼にとって、本当に必要なことを何も願いませんでした。しかし、神に近づくには自分のような者はふさわしくないと知る徴税人は、罪深さを告白し、神の赦しを求めました。

 その祈りは、ダビデの悔い改めの詩編51編を呼び起こすかのようでした。

  1. 神よ。わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。

  2. 深い御憐れみをもって。背きの罪をぬぐってください。

  3. わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。

  4. あなたに背いたことをわたしは知っています。

  5. わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

  6. (51:3〜5)

 そして、ダビデはこう祈ります。

  1. しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

  2. 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。

  3. (51:19)

 打たれ砕かれていない心に、ダビデが願ったような「清い心を創造し」「新しく確かな霊を授ける」ことはできません。「創造する」という言葉は、人間が主語になることはありません。神の業であるからです。義とされた徴税人に、神は清い心を創造されたはずです。

 さあ、私たちは、ひとり神の前に立ち、どのように祈るでしょうか。主が、義しとしてくださる祈りとはどんな祈りでしょうか。自分の立場を低くする祈りをすれば良い、ということではありません。また、このファリサイ派の男のようではないことを有り難がっても何にもなりません。私たちはまず自分のために、本当に必要なことを神に祈るのです。贖われた罪人として祈りを捧げるのです。しかし、高ぶりに気づけなければ、罪の自覚はできません。罪意識はだれでも持てるのですが、自分が罪人であるという自覚は違うのです。それを教えてくださるのが聖霊です。

 「わたしは、咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです」(詩編51:7)というような罪の理解を与えてくださるのは聖霊です。悔い改めに導かれるのも、同じです。自分の罪が自覚され、罪を悔い改める人々が起こされていくのは、聖霊が働かれているしるしなのです。

  1. 神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

  2. 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。

 神は、私たちが打ち砕かれて祈る「祈り」をしっかりと受け止めて下さり、その謙った心をご覧になられて、私たちを義としてくださいます。神の御子であるイエス様が、私たちの罪を負って十字架にかかって死なれ、贖いを成し遂げてくださいました。最も低いところまで下って、私たちの罪の贖いのために血を流して死んでくださいました。父なる神は、このイエス様を復活させ、イエス・キリストを信じる者をその復活の命によって新しく生かしてくださいます。私たちは神の憐れみを受けて罪から贖われた罪人です。

 イエス様を信じて、お言葉のとおり罪が赦され、義とされたと信じて、このあと家路に着こうではありませんか。

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