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2022年3月6日(日)主日礼拝説教


  説教  その時を待つ

               吉平敏行牧師


  聖書  ヨハネによる福音書3章1〜15節

      使徒言行録1章3〜11節 

 私たちが使徒信条で告白する「三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」の出来事は、ここで完了しています。そして、再び来られるイエス・キリスト(キリストの再臨)は、ここの神の使いの言葉を信じて待つことになります。

 イエス様ご自身は、これで父なる神のもとに帰って行かれたことになります。まだ神の国について十分理解できていない弟子たちが地上に残されました。過越祭の食事で、イエス様は弟子たちに、わたしが去っていくと、あなたがたは悲しむことになるけれど、それは、あなたがたのためになる、と仰いました。目で見て、学んでいる内は良いけれど、いなくなった時には、助け手が必要になる。そこで、わたしが去っていったあと弁護者を遣わす。もし、わたしが去り、その方が来られれば、救いがわかるようになると言うのです。イエス様と同じように教え、訓練を与え、神の力によって守ってくれる神的な存在。それが聖霊です。

 私たちの「救い」は、イエス・キリストが人として来られ、人として生きられ、十字架に架かられて、贖いの業としては完成されます。その死んだはずのイエスの体を、神は三日目に復活させられました。40日間、弟子たちに姿を現された後に、弟子たちの見ているところで天に上っていかれたのです。そして弟子たちは、父なる神が約束された聖霊を待つように、と言われたのです。

 私たちは、使徒信条の一つ一つの項目が実際に起こった出来事であったことを知ります。十字架も復活も、昇天も事実起こったのであり、弟子たちがそれらの証人として伝えたがゆえに、私たちに福音が届いたのです。このイエス・キリストを信じれば救われるのです。そして、この場の弟子たちは、約束の聖霊が天から降る、ペンテコステの日に完成となります。

 教会はキリスト教を伝えているのではなく、このイエス・キリストを伝えています。全ての人が罪から救われるために、これら全てを成し終えられたイエス・キリストが神の座に着かれたので、悔い改めて福音を信じるようにと命じられているのです。

 私たちはこのイエス・キリストを信じ、イエス・キリストと結び合わされることによって、罪に死に、イエスと共に復活し、イエスと共に天に上って、父なる神の前に立つことになるのです。

 イエス様は弟子たちに「エルサレムを離れないで、父が約束されたものを待ちなさい」と命じられます。エルサレムは、イエス・キリストの死によって、弟子たちには神の国は敗北したと思われた町でした。できれば早く、ガリラヤ湖周辺に戻って普通に暮らしたいと思ったでしょう。しかし主は、「エルサレムを離れないでいなさい」と命じられます。エルサレムが、この弟子たちによって神の国を伝える新たな発信地となることをイエス様はご存じでした。

 「待て」と言われるけれども、何を待つのか。

 それが5節です。「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。イエス様は、「聖霊による洗礼」という言葉を口にされました。

 イエス様はニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5)と言われました。イエス様は、人は水と霊によって「新たに生まれる」ことができることを示唆されました。

 肉から生まれた者、すなわち母親の胎から生まれただけの者は、目に見えない神の国に入ることはできません。入るためには、どうしても霊によって生まれる必要があります。ここでイエス様が言われた「聖霊による洗礼」は、聖霊、神の霊による、神ご自身による洗礼です。全身を水に浸かる洗礼のように、全身が聖霊に浸かり、全身を清くしていただく洗礼。それが「聖霊による洗礼」です。

 イエスの死で一度は挫折しかけた神の国の建設に、弟子たちは再び心励まされ、向かって行こうとしたのです。しかし、その時や時期に関しては、あなたがたの知るところではないから、父なる神に任せておきなさいと言われます。ただ、事柄には順番があります。

 時は神がお決めになるけれども、その時が来ると「あなたがたは力を受ける」。これからイエス様は父なる神の元に帰っていかれる。その後、助け手として聖霊が送られる。その方が来られるとき、あなたがたは力を受ける。聖霊が来られると、これまでイエス様が語られたことの意味が分かってきて、神の国の理解が深まり、それが弟子たちに力を与えるというのです。

 それは、私たちも同様です。聖霊の働きによって、聖書が生き生きとした、イエス・キリストの言葉、神の言葉として語りかけて来ます。聖霊は無機的な力ではなく、罪について、義について、裁きについて、正しい理解を与えてくださる神の霊であることを覚えたいと思います。

 イエス様は復活された後、新しい体が備えられました。そして、弟子たちが見ている前で、父なる神のもとに帰ろうとしておられる。それは、地上から目に見えない天へと移られる途中を示します。弟子たちは地上に残りますが、この後、父なる神が聖霊を遣わしてくださる。弟子たちは、その聖霊を待つこととなる。その聖霊が来られれば、イエス様がいた時のようになる。それが、約束でした。

  9節に「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と書かれています。私たちは、飛行機が離陸して雲の彼方に消えていく場面を見ています。飛行機もない時代に、そういう現象が記録されているということに驚きます。彼らは見ていたのでしょう。そのイエス様が雲の中に消えた後、使徒信条では「全能の父なる神の右に座したまえり」と告白します。イエス様は、私たちが知る宇宙に出て行かれたのではなく、私たちが「天」と呼ぶ神の領域に入られたのです。それをヘブライ書9:24では「天そのものに入り」と書くのです。

 そのイエス・キリストが、「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」とあるように、再び来られる時にも、目に見える体で現れることが示唆されています。

 イエス様は

  1. 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父の元に行くことができない」

  2. ヨハネ14:6

と言われましたが、目に見える姿でこのように神への「道」、天に入る道を設けてくださったのです。

 すると、私たちは、今どこにいることになるのでしょうか。

 パウロはこう言います。

  1. しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

  2. エフェソ2:4〜6​

 コロサイの信徒への手紙では

  1. さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。

  2. コロサイ3:1〜3

 これは、私たちがイエス・キリストを信じます、と告白したところから、イエス様と一つとされ、イエス様が復活された後に通られた同じ段階を通って、神のみ前に立つことができることを示すのです。これが、私たちの肉体のプロセスを示しているのではなく、私たちの霊について言っていることは明らかです。私たちは霊においてはこうなっているのです。そして、私たちの命は「キリストと共に神の内に隠されている」というのです。そこが私たちの命の場所、私たちがいる所です。

 こうした神の業は、信仰によってのみ知ることのできるキリスト者の特権です。自分の命がこうなっている事実を知らないままイエス・キリストを信じたことにしておいてはなりません。聖書の約束は、イエス・キリストにおいて、ことごとく「しかり」となるのです。

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