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2022年3月13日(日)主日礼拝説教


  説教  隊を整えよ

               吉平敏行牧師


  聖書  出エジプト記18章12〜27節

      使徒言行録 1章12〜26節

 先週の金曜日3月11日、東日本大震災から11年を迎えました。神戸で1月17日朝5時46分を思い起こすように、関東以北ではあの日の午後2時46分を思い起こします。自然災害であれ、戦争であれ、突如として平和が奪われる経験を、自分の体験から想像します。その中で、今日は「復興」という言葉の意味と実質を考えます。

 3月9日の新聞に、岩手県の漁師の方の言葉が掲載されていました。​

  1. 「家も道路も防潮堤も立派になったが、なんだか晴れやかな気持ちになれない。巨大な防潮堤はできたが、防潮堤が守るものがなくなった。前は個人商店が二つ三つあったが、今は販売機のみ。三陸自動車道もできて便利になったが、津波前の故郷の賑わいから遠ざかって寂しさがある。本当の復興ってこんなものかな。やった、ここまできた。よしっ、という気持ちになれず、もやもやする」

  2. (朝日新聞、いま伝えたい「千人の声」上)​

 復興は外観が整えば良いというものではありません。大変でも、自分たちの手で、もう一度、村や町を起こしていく。何かしら労苦する中で、「やった、ここまできた、よしっ」という実感も共有できるのでしょう。そうした「復興」に、使徒たちの「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)との言葉が重なります。

ローマ帝国の支配に気持ちまで押しつぶされて行く。国に平和を取り戻す方針は立てられないのか。そのような中で、使徒たちはイエスによる新しいイスラエルの建設を夢見ていました。しかし、イエスは指導者たちに捕えられ、十字架で処刑されてしまった。しかし、主イエスは復活した後、40日間弟子たちに現れ、ご自身が生きていることを明らかにされました。そこで、使徒たちは、今度こそ国を建て直してくださるのですか、と尋ねたのです。

 あのかつての不従順、不信仰を繰り返すまい。今度こそ、固く信じていこう。そう思ったでしょう。しかし、あの時、仲間の一人イスカリオテ・ユダは、主イエスを裏切りました。そういう仲間を抱えていた問題はどうなるのか。かつての自分たちで、もう一度、隊を組み直すことができるのか。

 イスカリオテ・ユダを除く11名の使徒たち、ガリラヤから来た女性たち、そこに、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちがいました。イエスの母マリアが出てくるのは、ここが最後となります。かつて、イエスを理解できなかった弟たちも、復活を目撃し、イエスがメシアと信じたのでしょう。彼らは、心を合わせて熱心に祈っていました。

 この「心合わせて」が、共同体を復興させていくときのキーワードとなります。以前、彼らは自分たちで何とかしようとしたけれども、イエスの十字架を理解できませんでした。まずは、祈りにより、霊とまことをもって仕えること。それが神の国を興す原則であることを学び、実行し始めたのです。

  イスカリオテ・ユダの自殺(マタイ23:3〜10)についても、仲間にそのような1人がいながら見抜けなかったのです。ペトロにしても、イエスを3度も否んだのですから同罪です。

 聖書は、一つの集団、人の集まり、群れがどういう考え方を持っているかを問います。ユダヤ人として、約束のメシア、イエス・キリストを信じて一つになろうとする弟子たちは極めて自然でした。そして、ユダの裏切りと死についても、正しく取り扱うことが重要でした。

 また、一人欠けた使徒職を補うという大切なことが残りました。今日であれば、代表者を立て選挙するでしょう。そこに、この場面における「くじ」の不思議な性質があります。

 こうした場面で最初に口を開くのはペトロです。こうした混乱した場面で、誰が群れをまとめていくのでしょう。これまでまったく経験したことがない新しい共同体を作っていく場面で、その集団の歩むべき道を指し示すことができる資質は重要です。何よりも、イエス様から直接、使徒と任じられ、その信仰を明確にしていたことは大きいでしょう。私たちが告白するニカイア信条で「一つの、聖なる、公同の、使徒的な教会を信じます」は、私たちの信仰の始まりに、これらの使徒たちの集団があると信じます。自分が思い描く救いではなく、主イエス・キリストを告白する一つの信仰に立ち、イエス・キリストに結びつく必要があります。

  ユダの死も、様々な憶測を排除せねばなりません。ペトロは、詩編を引用し、16節で「この聖書の言葉は、実現しなければならなかった」。つまり、ユダの死は、どうしても避けて通れない、神の御旨であったと説明します。

 20節の背景は詩編69編26節です。そこに「彼らの宿営は荒れ果て 天幕には住む者もなくなりますように」とあり、その「宿営」と「天幕」という言葉が、ここで「住まい」と訳され、ペトロはそれを使徒の職務と考えたのでしょう。ユダ一人のみならず、同じく使徒であった自分たちも主の裁きを受けた。同じ過ちを繰り返さないために、自分の考えや判断に基づくことなく、聖書の約束に基づいて判断する。

 彼らの復興にはイスラエル民族の復興という考えがありました。イスラエルの12部族、主イエスが12人の使徒を選ばれたこと。こうして、集団の命が継続していく。ここに興っていく、イエスを信じる弟子たちの中に、イスラエルがイエス・キリストによって新しい命を得て生き続けるという思いがあったでしょう。私たちがイエス・キリストを信じて永遠の命をいただくことは教会に連なることでもあります。教会は建物ではなく、イエス・キリストを信じる信仰者の群れであるという視点。果たして自分が属する教会は、聖書に基づく、本来の信仰を保つ群れであるかどうかと考えます。

 ペトロは補充する使徒の条件を、「ヨハネの洗礼の時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者」と言います。その条件に適う者がヨセフとマティアの2名です。そこでも、使徒と弟子たちは24〜25節のように祈ります。この祈りの冒頭には「あなた、主よ」と言う呼びかけがあります。すぐ目の前に主イエスがおられるかのように「あなた主よ」と声をかけているのです。そこで、くじを引きました。

 私たちの感覚としては馴染まないこの“くじ”ですが、箴言には「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めは全て主から与えられる」(16:33)と出てきます。大切なのは、その場にいる人々が、くじの結果が主から出たことと受け止めるということに主の御心があります。くじは安直な方法のように思えて、不要な憶測を排する極めて公平な方法でもあります。くじは当たりハズレではなく「落ちる」ものであり、マティアに落ちたのでした。

  主イエスが天に昇られた後、使徒を指導者として120名ほどの信者が集まり、成し遂げられなかった「神の国」イスラエルを新たに興そうとします。主イエスは天に上げられ、聖霊はいつ降るのか分からない、しかし、信頼する使徒が12人整い、イエスが強調された聖書の言葉を基に、自分たちの手で新しいイスラエルを作っていくのです。信仰によってイエスが私たちのうちに住まわれ、やがての日に再び来られるのを待つ、教会のとるべき姿勢でもあります。

  今日、私たちが学ぶことは、もう一度聖書の約束に基づいて、私たちの教会を建てていくことができる、ということです。しかし、あくまでも聖書に基づいて伝道や教会について学んでいくという姿勢です。イエス・キリストによって牧師が教会に遣わされ、立てられた長老がいて、小会で祈りをもって話し合い、神の言葉に基づく教会を建てていくのです。

 大変ながら、復興は携わった者たちだけに実感できる特権であり、そこにやり甲斐や希望が生まれます。心を合わせて祈る者が起こされ、イエス・キリストによる御業が起こされ、私たちはただ神の言葉に信頼して従っていく。その時、あの漁師さんの言葉ではありませんが、「よし、ここまできた」と言えることを味わっていけるのではないでしょうか。

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