top of page

2022年3月20日(日)オープン礼拝説教(要約)


  説教  父の家に帰ろう

                   吉平敏行牧師

  聖書  ルカによる福音書 15章11~24節

 「放蕩息子」の譬として知られる有名な話です。

 こんなにも立派な父親がいて、家も裕福で使用人もたくさんいる、そんな豊かな家庭に育った二人息子の弟の方が、ある日、突然、家出をします。彼は、親から遺産の分け前をもらい、遠くの国へ行き、放蕩の限りを尽くし、ついにお金を使い果たし、その後、ひどい飢饉に見舞われ、飢えで死にそうな目に会います。そこで、彼は「我に返って」、再び家に戻る決心をしました。家には、家出息子をずっと待っていた父親がいます。ある日、遠くに息子の姿を見るや、父親は走りによって口づけして、家に迎え入れ、僕たちに大宴会を開くようにと命じます。めでたし、めでたし。天の父なる神は、これほど憐れみ深い方なのです、という話です。

 クリスチャンはこの憐れみ深い父なる神を信じていると思っています。そして、まだこのような神を知らない人々にも知って欲しい。人生の大変なことに遭遇したとしても、それは神に帰る機会と考え、ぜひこの時にイエス・キリストを信じて欲しいと考えます。これで、今日のオープン礼拝のお話は終わりです。

 ただし、もし、私たちの教会が、その父なる神の豊かさを持っているような温かみのある教会なら、という話です。戻ってみたけれど、なんだか冷たい感じがする教会というのであれば、息子はまた踵を返して、飛び出していってしまうかもしれません。教会員が、心して聞かねばならないテキストということになります。

 この譬えは、「失われていた人が見つかった」時の喜びがいかに大きなものかを示す話です。そのまま現実に当てはまりそうな話ですので、みんな自分勝手なイメージで読んでいます。

 この息子は、教会からしばらく遠ざかっていた自分であったとか。こんな風に父親に迎えてもらえて幸せだな、とも思います。どうして、これほどの父親の家を出たのだろう、とも考えます。中には、こんな風に甘やかすから家出したのだ、きっと、またするだろう、と批判する方もいます。大切なのは、聖書はこの譬え話を通して何を伝えたいかです。

 ある日突然、息子が口を開きます。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」これは育ちの良いお子さんの言い方です。今風には「オヤジ、俺がもらえるはずのあんたの財産、俺の分だけ、先にくれない?」という話です。

 今や、世界の様相、価値観は大きく変わってきています。大人も子供も苦闘しています。これまで誰もが良いとしてきた価値観が変わってきた。互いの信頼も薄れてきています。親子、友人の間でも、国と国でもです。

 聖書は、この息子のように「わたしはここで餓え死にしそうだ」という人間の状況を伝えています。豊かさを味わっていた時代には想像もつかなかった。それが、今、世界的に大きな危機に差し掛かっている。このままでは大変なことになる、という危機感です。そうした中で、もし、神がおられるのであれば、こんな時代にどんな希望を与えてくれるのだろうか、と期待します。かつてなかったほど、本当の希望を知りたいという願いがあります。

 息子は、外から見たら幸せに見えたでしょう。ただ、立派な父だからこそ、一緒にいるのが息苦しくなっていたのかもしれません。そして、もっと自由になりたいと思い始めたのでしょう。「遠くの世界」を夢見たのです。

 ドイツの詩人カール・ブッセの詩を、明治期に上田敏が「海潮音」という詩集に出した中に「山のあなた」という詩があります。

  1. 山のあなたの空遠く、『幸』住むと人のいふ。

  2. 噫、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。

  3. 山のあなたになほ遠く、『幸』住むと人のいふ

 「遠い国」には憧れがあります。厳しい現実に直面するほど、遠くには幸せが待っているような気持ちになります。しかし、その遠くまで行っても、さらにその先に自由があるかのように思ってしまう。自由は心に思い描いている内が幸いなのかもしれません。

 この息子は、遠い国でもう食べ物が手に入らない、という危機的状況に追い込まれて、初めて自分の死を実感しました。「わたしはここで飢え死にしそうだ」の原意は「飢えで滅んでしまう」です。豊かな時は、死は想像でしかなかった。しかし、今回、初めて現実に死を味わったのです。そこで息子は「我に返った」のです。

 「我に返る」とは、熱に浮かされたような状態から目覚めることです。言い訳したり、人のせいにしている内はまだ我に返った、とは言えないでしょう。我に返った人は、「これまで自分は何をしてきたのか」と問うでしょう。それが「我に返った」状態です。

 そこで、昔の気づかなかった豊かさが思い出されます。「父のところでは、あんなに大勢の人が働いていて、有り余るほどパンがあった」ではないか。我に返った人には、悔いと厳しい現実が見えてきます。

 この譬え話では「ひどい飢饉」が引き金となりました。私たちにとって何が引き金になるのでしょう。彼は悔いました。それが「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」という言葉です。彼は父親に対してのみならず、これまで自分を生かしてきた天の配剤に対して罪を犯したと自覚したのです。

 父の家、大勢の雇い人、有り余るほどのパン。あの時、自分は何を見ていたのか。当たり前の生活のありがたさに気がついていなかった。いつでも「遠くの世界」に良いものがあるかのように思い、その時を生きていなかった。家出して、お金を使い果たし、もう後がなくなって、ようやく気がついた。

 この状態を父親は、「この息子は死んでいた」と言うのです。これは比喩です。しかし、父親の中では、息子は事実死んでいた。繋がりも切れていた。探しようもなく、ただ帰るのを待つばかりでした。家出した息子にしても、もうどうにもならなくなった。プライドもあるでしょう。戻るに戻れない。「このままでは飢えて死ぬ。」まさに死です。そこで、彼は我に返るのです。

 18節の「ここをたち」の「たつ」は「立ち上がる」の意味です。彼の決心を示します。「死者の中から立ち上がる」と言ったら復活を意味します。父親は、その事を「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言いました。父親にとって、この息子が我に返って、家に戻ってきたことは生き返りであり、復活でした。

 この息子に、その死を気づかせ、立ち上がらせたのは、神の恵みです。何も気づかぬまま人生を終える人もいるからです。啓示的なものと言えます。それが神の憐れみでした。天の神が彼に気づかせてくださったのです。彼は詫びるべきは詫びて、赦しを乞おうとします。その決心が固まって、父の家に向かいます。

 父親は息子の姿を見つけるやいなや、「憐れに思い」走り出しました。この「憐れに思い」が、イエス様の集まった罪人たちへの思いです。一人息子を失ったやもめを憐れに思って、息子の棺に近づいたのもイエス様でした。旅の途中で、追いはぎに襲われ、道に倒れていた人を憐れに思って近づいたサマリヤ人は、イエス様のことでもありました。

 神は、立ち上がれなくなった者を放置しては置かれません。何らかの方法で近づいてくださいます。ある人を通し、目に見えるものを通し、耳にする言葉を通し。そうした自分を目覚めさせるものとの出会いの中に、神の憐みがあると受け止められる人は幸いです。

 神はあなたに、「諦めるのはまだ早い。とにかく、戻るべきところへ戻ろうではないか」と、声を掛けてくださっています。聖書は、必ず脱出の道が備えられていると教えています。だから、決して、失望してはならないのです。

 父なる神は、この息子を迎え入れたように、私たちを暖かく迎えてくださいます。恥ずかしそうに肩を落とし、侘びを言おうとした息子の口を遮って、僕たちに、最高の迎え方をしてやってくれ、最高の料理でもてなしてやってくれと言いました。Spare no effort! Spare no expense!「出し惜しみするな。金に糸目をつけるな」。それが、失われた者たちが父なる神の家に戻ってきた時の対応です。

 聖書は、父親はこうあるべし、息子はこうすべし、という教訓を教えているのではありません。神は、私たち人間を愛してくださっている。ご自分の独り子を与える程の愛をもって、私たちを愛していると教えているのです。今、独り子の神イエス・キリストは、両手を広げて、私たちの帰りを迎えてくださいます。このイエスに希望を置く者は、生き延びます。そして、そのイエス・キリストを信じる者は、復活するのです。

 今、疲れ、傷つき、塞ぎ込む私たちを憐れに思って、イエス・キリストは近づいてくださっています。さあ、この神の家に帰りましょう。

bottom of page