日本キリスト教会 神戸布引教会
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2022年3月27日(日)主日礼拝説教
ルカによる福音書 19章37~44節
説教 神の訪れを知る
吉平真理教師試補
聖書 エレミヤ書 33章1〜11節
聖書 エレミヤ書 33章1〜11 節~44節
ダビデが詩編122編で求めた平和は、外敵から守られる平和だけでなく、神と民、人と人の間の平和でした。
エルサレムの平和を求めよう。
「あなたを愛する人々に平安があるように。
あなたの城壁のうちに平和があるように。
あなたの城郭のうちに平安があるように。」
わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。
「あなたのうちに平和があるように。」
わたしは願おう
わたしたちの神、主の家のために。
「あなたに幸いがあるように。」
「平和の町」という意味のエルサレムは、昔も今も平和であると聞いたことはありません。今もなお軍事的緊張があります。シャローム『平和がありますように』とどれだけ言っても、挨拶だけで平和はない、と説いたのは、預言者エレミヤでした。
エレミヤは、祭司の家系の出で年若くして主の預言者として召し出されましたが、人々が最も聞きたくないことを語らねばならない羽目になります。北から裁きとして、カルデア人の大軍勢がやって来ると預言し、民に悔い改めを迫りますが、誰も危機感も抱いていない平和の時に語るのですから、人々は聞こうとしません。彼は神の嘆きと憤りを繰り返し語りますが、人々は聞こえの良いことばかりを聞きたがり、彼を嫌悪し、呪い、投獄します。それでも彼は、民の行く末を案じ、昼夜を問わず涙を流しながら、神に執り成しをします。(エレミヤ書14章)そのエレミヤに神は言われます。
「たとえ、モーセとサムエルが執り成そうとしても、
わたしはこの民を顧みない」
(エレミヤ15:1)
『疫病に定められた者は、疫病に
剣に定められた者は、剣に
飢えに定められた者は、飢えに
捕囚に定められた者は、捕囚に』
わたしは彼らを四種のもので罰する。
(エレミヤ15:2,3)
そして神は、民に言われます。
「わたしは、お前を憐れむことに疲れた。」
(エレミヤ15:6)
エレミヤは、神と民の間で板挟みになり、自分の使命と孤独、祖国の滅亡を嘆いたのです。「涙の預言者」(14:17)と言われる所以はここにあります。預言者の悲哀を、これほどまでに味わった預言者は他にいないでしょう。紀元前586年、エルサレムは陥落し、ソロモンの神殿(第一神殿)は崩され、ユダ王国は消滅します。
それから六百十数年の時を経て、同じく涙を流しながらエルサレムの都を眺めたのがイエス様です。ローマ帝国によって統治されて30年余り。パックス・ロマーナ、「ローマの平和」と呼ばれる表向きの平和が保たれていた時代です。しかし、支配されるユダヤ人にとっては、到底、平和と呼べるようなものではありませんでした。
ユダヤ人は、ローマ帝国からイスラエルの主権を取り戻す「救い主」を期待したのです。しかし、人々の願望が失望に変わると、イエス様への想いは、手のひらを返したように冷めていくのです。
この日、イエス様は、ご自分の最期を自覚し、これまでとは違う方法で、子ろばの背に揺られながら、オリーブ山の麓から都に通じる道を登っていかれます。これはゼカリヤ書9章9節の預言の成就でした。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者。
高ぶることなく、ろばに乗ってくる。
雌ろばの子であるろばに乗って。
弟子たちは、人々が自分の上着を脱いで道に敷く(ルカ19:36)姿を見て、感極まります。声を上げて神を称えたのです。
「主の名によって来られる方、王に。
祝福があるように。
天には平和。
いと高きところには栄光。」
「天には平和」という言葉を、イエス様はどのような思いで聞いておられたのでしょうか。天では平和は実現しています。本当に平和を必要としているのは、「地に住む」、私たちです。これは、この福音書の2章の、イエス様の降誕を知らせた天の軍勢の賛美と対比できます。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
(ルカ2:14)
天使たちが願ったのは「地の平和」です。それは、「平和の君」と呼ばれる方が地上にお生まれになったからでした。イエス様が来られたことで地に平和が訪れたのです。
イエス様がエルサレムに近づき、目の前に広がる都をご覧になったとき、その雰囲気は変わりました。神の都エルサレムのために涙を流されたのです。『もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら..。しかし、今は、それがお前には見えない。』(42)
イエス様は、この都が悔い改めて、神に立ち返り、しあわせになって欲しかったのです。しかし、民はイエス様を信じようとはしませんでした。この方が来られても、平和への道を見出せない。滅亡を避けることはできなかった。その人間の頑なさによる悲惨な結末に涙されたのです。
この嘆きはイスラエルの歴史そのものを表しています。神から遣わされた多くの者たちが、民のために涙しながら神の言葉を取り次ぎ、命を落としました。
ここからさらに30余年、紀元70年にイエスさまのお言葉は、現実のものとなります。今の季節と同じ、過越の祭りを祝う大勢の巡礼者たちが各地からエルサレムを訪れる中、人で膨れ上がった都は、そのまま包囲され、誰も脱出できなくなったところで、兵糧攻めが始まりました。歴史家ヨセフスの記した「ユダヤ戦記」には、ローマ軍によるエルサレム陥落時の残虐行為が記されています。都は血に染まり、燃え続けたといわれます。あの壮麗な神殿(第2神殿)が崩れ落ちた日は、かつてバビロニアによって神殿が破壊されたのと同じ日だったといいます。
「もし、知っていたなら」。平和への道を知っていたなら。イエスさまはそう嘆かれ、泣かれました。
『戦争を始めとする人間の残虐行為。こんな残酷なことが起こる世界に、神はいないのだと思う。』との言葉をこれまで何度か聞きました。悲惨な出来事が起こるなら、神はいないのでしょうか。悲惨な出来事を防がないのは、神のせいでしょうか。それは、人間のうちにある悪の問題です。その悪を解決しない限り、本当の平和は来ません。神の御子、イエス・キリストは、その悪の根源である罪を解決されるために、平和の君としておいでになったのです。
ロシアのウクライナ侵攻から1ヶ月が経ちました。毎日、報道される情報に、早期終結を祈りながらも、憤りと哀しみ、やりきれない思いが渦巻いています。平和の祭典と呼ばれる、オリンピックの最中に?新型コロナの脅威は去っていないのに?闘うべきは、もっと違うものだろう、と思っていたところに、ウクライナ侵攻です。戦禍は拡大するかもしれない、とも言われる今、「もし、平和への道を知っていたなら」という言葉は、私たちにも当てはまります。
イエス様は、『平和を実現する人々は幸いである』と仰いました。『その人たちは、神の子と呼ばれる』からです。平和を実現する、とは難しい課題です。ことを荒立てないことではありませんし、譲歩ばかりすることでもありません。また、簡単に他の人々の仲裁者にはなれません。両者のために執り成し、関係を執り持つ存在は、自分の評価や利益を考えていられません。
私たちはまず、イエス様がなしてくださった平和を悟るべきでしょう。私たちと神との平和を実現するために、十字架の死をもって執りなしてくださったのです。それは、私たちが、神との間に平安をいただくだけでなく、私たちが他の人々とも、この平和を得るためでした。神でありながら人の姿をとっておいでになられ、徹底的に身を低くされ、十字架の死にまで謙られました。私たちが罪によって滅ぼされないためです。
イエス様の謙りと忍耐。平和の実現にはなくてはならないものでした。にもかかわらず、心を頑なにしている私たちのために、涙を流されます。イエス・キリストが成してくださった救いを、私たちは恵みとして受け止め、神との平和が与えられた者として、平和を造り出す者として、歩みたいと思います。謙り、身を低くして、イエス・キリストが歩まれたように、お従いしたいと願うものです。
ますます険しくなっていく世にあって、心に平和、他の人と間に平和、神との平和をいただいて生きていきたいと思います。