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2022年4月3日(日)主日礼拝説教(要約)


  説教  身を慎み、祈れ

​              吉平敏行牧師


  聖書  マルコによる福音書 14章27〜31節、14章66〜72節

      ペトロの手紙一 4章7〜11節

 受難節、私たちはこの季節にイエス・キリストの苦難、十字架の死を思います。今日は、ペトロが否認した時に聞こえた鶏の鳴く声について考えてみます。受難節は、イエス・キリストの苦難を通し、イエス様の言葉どおり、自分の身にイエス様の苦難を当てはめて考えてみることが大切です。

 今日の少し前、主は絢爛豪華なエルサレム神殿を前に、弟子たちにその神殿が跡形もなく崩れることを予告されました。それが起こる前に起こりうる様々な苦難、戦争や紛争の噂、方々の地震や飢饉が起こっても、それらは産みの苦しみの始まりであると言われます。その中で主は、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(マルコ16:9)と言われます。しかし、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(13:32)というのです。だから「目を覚ましていなさい」と警告するのですが、それが13:32〜37に記されています。

 この6節に「目を覚ましていなさい」が4回も出てきます。37節では「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」とありますから、これは私たちにも語られています。

 注目したいのは35節。「いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。」夕方、夜中、明け方は時間の流れです。しかし、「鶏の鳴くころ」とはいつのことでしょう。

 イエス様は最後の晩餐の席の後、弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われます。今、まさにイエス様と契約を結び、いよいよこれから一緒に戦いに臨もう、という場面で、唐突に、弟子たちがご自分を否定するかのように言われたのです。ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と直ちに反応します。ペトロ以外の弟子たちにしてみれば、「お前だけ、何だよ」と言いたくなる言葉です。そこでイエス様は間髪を入れず、ペトロに向かって「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告します。「あなたは」と、面と向かって言われたのです。そこで収めておけば良いものを、ペトロはさらに「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とまで言い切ったのです。

 私たちは、「世の終わりの時」、あるいはイエス・キリストの再臨の話を聞いてもピンときません。どこかで、自分が生きている間に、そんなことは起らないと思っています。しかし、イエス様が語られた終わりの時は、今の様相ではないですか。

 今、世界で起こっている戦争や飢饉、迫害、あるいは地震など、歴史の中で繰り返されてきました。それで世の終わりが来るのではない、とイエス様は言われます。その世の終わりに直面することと、今、自分が危機に直面することとの違いは何でしょうか。

 取り返しがつかないことをして、どんなに悔いても悔い切れない苦しみを味わっている時と、世の終わりのような状況で生きているということに違いがあるのでしょうか。自分が最悪の状態を通ることと世の終わりとどちらが辛いのか。自ら命を断つほど悩み、苦しんだ人々にとって、さほど違いはないでしょう。世の終わりは、私にとっての終わりにも通じます。

 イエス様に、自分が知らないなどとは決して申しませんとまで豪語したペトロですが、その直後、イエス様がゲッセマネのオリーブ林の中でひどく悶えて祈られる場面では3度も寝てしまい、イエス様から注意されます。イエス様は「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い」と仰います。にもかかわらず、弟子たちは寝てしまいます。あれほど心燃えていても、その場面で眠ってしまうのですから、人間の決心などしれたものです。人間の弱さをご存じのイエス様は「一切誓いを立ててはならない」(マタイ5:34)とまで言われました。

 初めから破るとわかっていながら立てる誓いとは何でしょう。誓いを立てれば、何としてでも守ろうとします。そして、誓いを守りきれなかった、あるいは破ってしまったら、良心的な人は悔いるでしょう。悔いない人は繰り返します。しかし、どれほどの誓いが破られてきたことでしょう。大切なのは、口先の誓約、心からの決心というようなことではなく、自分の弱さを弁え、神の恵みによってのみ誓いは果たされるということを心に刻むことでしょう。

 イエス様が仰られた「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか明け方か、あなたがたには分からないからである」の中の「鶏の鳴くころ」です。

 夜の場面です。大祭司の家の庭でした。ユダヤ人たちは、大祭司が死刑判決を出したイエス様に向かってしたい放題をしていました。一方、ペトロは、春先の寒い夜。焚かれた薪の炎に手をかざして暖を取っていたのです。

 そこに大祭司に仕える女中から「あなたもイエスと一緒にいたでしょう」と言われ、直ちに打ち消します。ペトロは少し場所を移動しますが、その時、鶏が鳴きます。一度目です。

 次にその女中は、周囲の人たちに「この人は、あの連中の仲間です」と言い出し、そこでもペトロはすぐさま打ち消しますが、今度は人々が「確かに、お前はあの連中の仲間だ」と言います。ペトロは、呪いの言葉まで口にして、「そんな人は知らない」と誓い始めたのです。すると、すぐ鶏が鳴きました。一度目に鶏が鳴いた時には、こんな時間にと思ったかもしれません。しかし、二度目に鶏が鳴いた時、ペトロはイエス様が「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた言葉を思い出し、いきなり泣き出します。マタイとルカは「外に出て、激しく泣いた」(26:75)と書いています。

 取り返しのつかないことをしてしまった瞬間でした。人の信頼や愛を裏切るような言葉を口にしたり、行ったりした時。自分が約束した言葉に、真実に、誠実に、生きようとする人たちは苦しむでしょう。その場その場で、言葉を使い分け、うまく切り抜ける人には縁遠い話です。しかし、自分を誤魔化すことはできません。

 そうした苦しみ、心の葛藤と世の終わりのどちらが苦しいかと尋ねられても分からないでしょう。

 イエス様が、主人がいつ訪れるのか、夕方か、夜中か、鶏が鳴くころか、明け方か、と言われた「鶏が鳴くころ」とは、思いがけないことが思いがけない形で起こる比喩かもしれません。

 私たちが、神の裁き、イエス・キリストの再臨という聖書の用語から、目に見える状態を思い浮かべるとすれば、最も身近なところで、思いがけない時に、主が来られる、という視点を見落とすでありましょう。だから、目を覚ましていなければなりません。

 神の声も、イエス・キリストの声も、肉声では聞こえません。聞こえてくるのは、この時代を懸命に生きようとしている人々の声です。苦しみ叫ぶ労働者の声、親から虐待され、死に至らしめられた幼子たちの泣き叫び、愚かな指導者たちの身勝手な思いから起こった戦争で殺され、被災し、難民となった人々の苦悩の叫びです。そうした中で身悶えしながら祈られたイエス様の言葉が聞こえて来ます。

  1. わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。    

  2.   (マルコ14:34)

 自分の知識、経験、熱心、それら一切が全く役に立たない時代が来ています。しかし、世の終わりではありません。闇が覆い、目は曇らされ、音も聞こえず、ただ悔いと苦悩だけがある。そんな終わりのような状態は、私たちの身に起こります。

 そうした中で、唯一希望を与えるのは聖書の言葉です。イエス様が遣わされる聖霊が私たちに御言葉によって語りかけてきます。聖霊は霊ですから、祈ることで霊の言葉を聞くのです。

 後に、教会の指導者として立ったペトロは、こう記します。

  1. 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。

  2.        (ペトロ一4:7〜8)

 自分が誓った言葉を守れない肉の弱さを痛いほど味わったペトロが、イエス・キリスト十字架と復活を知った者として、愛がいかに多くの罪を覆うかを伝えています。キリストの愛だけが、私たちを救うことができるのです。だから、目を覚ましていなければなりません。

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