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2022年4月10日(日)主日礼拝説教(要約)


  説教  命の拠り在(ありか)

​                  吉平敏行牧師


  聖書  マルコによる福音書 15章21〜41節

      ペトロの手紙一 4章12〜19節

 受難週は、イエス・キリストが私たちと一つになられたことを噛み締める時です。パウロは「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(コリント一2:8)と書いています。自分の正義の主張がイエス・キリストを十字架にかけて殺すことになったという、悪の力に目覚めなければ、私たちに罪は残ります。悪魔が聖書の言葉を使って、私たちを欺くことを十字架は教えているのです。 

 イエスの十字架の意味は、聖霊に教えられるほかありません。十字架に架けられて死んだイエスこそ神の子であり、この方が死んでくださって、私たち人間と同じになられたのだと知ります。人間の罪の深みにまで下り、その罪の故に裁かれ、殺されたこと。それ故、私たちは赦されたのです。それ以外に罪から解放される道はありません。

 その日たまたま通りがかったのがキレネ人シモンでした。キレネは、北アフリカのリビアあたりです。彼こそ、イエス・キリストの十字架を実際にその身に負った人です。主イエスが「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)と言われたのは比喩ですが、シモンは従いたかったからではなく、無理に担がせられたのです。

 この話は、「アレキサンドロとルフォス」というシモンの息子たちから伝えられた話でしょう。もし、このルフォスが、ローマ書16:13の「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」と書かれたルフォスだとしたら、パウロとは非常に親しい関係であったことになります。いずれにせよ、彼らはクリスチャンであったでしょう。この時のシモンが、後にイエスが神の子、メシアであると知った時の驚きを想像します。それを息子たちに証ししたとしても不思議ではありません。当座は意味が分からなかったシモンは、この十字架によってイエス・キリストと出会ったのです。そして、今、私たちは比喩としてでも、イエスの十字架をどう自分に当てはめて考えるかです。

 もう一人、イエス・キリストの死を目撃していたローマ兵の百人隊長の言葉が記されています。「本当に、この人は神の子だった」という、彼の信仰の告白です。あるいは「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という神殿の仕切りの幕が真っ二つに上から下に向かって裂けるという驚くべきことについて、神殿に仕える祭司たちの証言としても貴重です。それが「ちょうどイエスが息を引き取られた時」と確認したはずです。こうした証言を私たちはどう聞くのか、ということになります。

 目の前に、十字架に付けられた犯罪人がいます。ある者が没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとましたが、イエスは飲もうとされません。それは、イエスが「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(14:25)とおっしゃった言葉のとおりでした。

 裁判の場で「十字架に付けろ」と叫んだ群衆が、今度は「十字架から降りて自分を救ってみろ」と叫びます。祭司長、律法学者たちは、「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ、十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう」と言います。彼らには、十字架につけられたイエスは大嘘つきで、神を冒涜する者、恥ずべき人間でした。

 なぜイエスは、これほどまで罵られねばならなかったのか。両側の二人の犯罪人たちは、罵られないのか。ピラトも、イエスに罪を見出せなかったのに、なぜ群衆の声に押され、誤った判決を下したのか。使徒たちも出てきません。ガリラヤからきた女性たちが遠くから見守っているだけです。

 それも主イエスはご存知でした。「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。」 (マルコ10:33〜34)十字架は、ことごとく主イエスの言葉のとおりになったのです。

 しかし、12時から3時まで闇が続くと人々はうろたえます。イエスの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」に、「そら、エリヤを呼んでいる」と言い、ある者は、「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言う。しかし、何も起こりません。その後、イエスは大きな声を出して、息を引き取られます。結局、十字架では何も起こらなかったのです。神らしい栄光も奇跡もなかったのです。ただイエスの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」だけが聞かれました。

 イエスは、これまで神を「父よ」と呼んでいました。ゲッセマネの園でも、「アッバ、父よ」と呼んで、ご自分が神の子であるとの思いにいたのです。しかし、この暗闇の中で何が起こったのでしょう。はっきりしているのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた言葉です。

 これまで「父」であったのが「神」に変わって、何が変わったのか。父と子との関係でなくなり、人が神を求める叫びになりました。私たちに、「天におられる父よ」と祈るように教えた主イエスにとって、父である神を、人が神を呼ぶように「わが神よ」と訴える。さらに「なぜ」と問う。ご自分が死ぬことを「なぜ」と問うたのではありません。「なぜ」、「わたしを見捨てたのか」という疑問です。いつも一緒であったはずが、この場面で一方的に断ち切られたのです。

 小さな子供を可愛がって抱く若い父親の幸せそうな表情と、信頼し切って戯れる子供たちを思い浮かべます。信頼とは言葉を超えた安心です。そのイエスが闇に覆われた中で「なぜ」と問う。覆う闇が悪を象徴しています。まさに、その闇こそ神なき世界の象徴であり、神なき私たちの世界観です。

 「どうして、わたしを切り捨てたのか」こそ、主イエスが私たちと同じになられた瞬間です。イエスは、それまでも人でしたが、人間より幾分か優位な立場にいたでしょう。それゆえ人々も救いを期待しました。しかし、死刑判決を受ければ罪人です。そして、十字架の上では何一つ神らしい業も起こりませんでした。唯一、主イエスは神と一つだったはずです。それが、ここで断たれ、私たち人間の数に数えられたのです。もし、イエスが死んでこのまま共同墓地に葬られたとしたら、この記事はなかったでしょう。この日は、いつもの処刑日で、犯罪人と処刑人だけ、記録すら残りません。

 このイエスの死が、神がひとり子を私たちに「お与えになった」出来事です。イエスが神から捨てられたことは、神の側からは「お前を人の手に渡した」ということです。主イエスがゲッセマネの園で祈られた「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)との祈りの成就でした。

 パウロはこう説明します。

  1. 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コリント二5:21)あるいは「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。

  2. ガラテヤの信徒への手紙 3章13節

 この真理が、イエス・キリスト、神の御子の霊として、天から私たちに下りました。イエスの「わたしの神、わたしの神よ、どうして、わたしを切り捨てたのですか」の言葉を噛み締めながら、この苦難の中で、なお神に信頼し続けた御子の霊をいただきたいと思います。この御子を信じる者に神は「アッバ、父よ」と祈る御子の霊を遣わしてくださいます。

この神の子イエスの死こそ、私たちに神の命が注がれた時です。罪を犯し、悪魔の誘惑に人生を翻弄させられ、生きる自由を奪われていた人間が解放された瞬間です。

 この受難週、神の子イエスが十字架の死に至るまで謙って、私たちと完全に一つになってくださったことを噛み締めたいと思います。その時、私たちは聖霊によって、こう答えるでしょう。「主よ、それは私の罪のためでした。」「私が神に義と認めていただくためでした。」そして「私が悪の力から解き放たれて自由になるためでした」と。

 そうした正しい罪の自覚を、この受難週にいただきたいと思います。

  1. だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

  2.                ペトロの手紙 一 4章19節

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