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2022年4月17日(日)イースター礼拝説教(要約)


  説教  主は生きておられる

                  吉平敏行牧師

  聖書  マルコによる福音書 16章1〜8節

      ペトロの手紙一 5章8〜11節

 あるはずの遺体がない!イエス・キリストの復活と呼ばれる出来事の始まりです。しかし、イエスの遺体はなくなったのではなく、新しい存在となられた。そして今もイエスはおられる。これが聖書の約束です。

 日常生活では自然に「復活した」と使うのに、なぜか「イエス・キリストが復活した」と言うと「そんなことはありえない」と言われる。

 もしその「復活」という言葉に、墓でイエスの遺体の組織が変化して、新しい体に組み替えられるSF映画を思い浮かべるとしたら、そういうことはありえないでしょう。実際のイエスの復活は、私たちが想像できないものだからです。

 イエス・キリストの復活は、埋葬された墓の出来事だけではありません。パウロによれば、イエス様は復活された後、ペトロに会い、12弟子に現れ、500人以上に同時に現れたと言います。パウロも、後に、復活されたイエス様から、「サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか」と天から声を掛けられ、パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と、イエス様ご自身の声を聞いています。

  ですから、イエス様の復活は、時も場所も限定されない自由なものだったのです。「ガリラヤ」が指定されたのは、当時の弟子たちが再会するためであり、今の私たちには、復活されたイエス様とどこででも出会えると考えられます。「わたしは先に行っている。そこで、再び会える」とイエス様は言われるのです。

 ある方は、教会でイエス・キリストに出会った、と言うでしょう。ある方は、イエスのことをラジオで聞いたと言いましたし、ある方は、聖書を読んで、あるいはクリスチャンの家族や友達から聞いたと言います。たまたま通りかかって教会に入った、という方もおられます。それでも、私たちは、比喩的にイエス・キリストに出会ったと言い、事実会っているのです。

 イースターは、イエス・キリストの復活を祝う日です。春分の日を過ぎた最初の満月の次の日曜日とされています。それは、イエス様が処刑された日が過越祭の日だったことによります。その過越祭が、春分の日を過ぎた最初の満月だったからです。ですから、年によってイースターの日が違ってきます。ただ、イエス様が復活された頃の季節感を味わうことはできます。

 彼女たちが墓に向かった春の朝早く、空は晴れ、爽やかな日だったでしょう。女性たちは、墓の入り口に転がされた非常に大きな石が気掛かりでした。しかし、墓に着いてみると、その石は転がされ、墓の中が見えていました。恐る恐る墓穴に入ってみると、白い長い衣を着た若者が右手に座っています。青年は「あなたたちは、十字架につけられたイエスを探しているのでしょう。しかし、イエスは復活なさって、ここにはおられない」と言います。

 だれも思いもよらない出来事でした。青年は、イエスの遺体が無くなったのはイエスが復活したからだ、と言うのです。さらに、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。それを、弟子たちとペトロに告げなさい、と言います。

 女性たちは直ちに墓を出て、逃げ去りました。聖書は女性たちについて「震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言えなかった。恐ろしかったからである」と書いています。イエス様の復活とは、とにかく「恐ろしい」出来事でした。これは正直な言葉です。単に遺体がなくなっていたというのであれば、慌てて人を呼んで探し始めたでしょう。

 青年の「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」との言葉は、イエス様が弟子たちに「あなた方は皆わたしにつまずく」と言われたその後に言われた言葉でもあります。

  1. 「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなた方より先にガリラヤへ行く。

  2. マルコによる福音書 14章27〜28節

の場面で語られた言葉です。

 ですから、青年の「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」の言葉を聞いたとき、ペトロは、それは主イエスの言葉だと直感したでしょう。青年が、弟子たちの後に「ペトロに」とその名を付けたのは配慮です。

 ペトロは、イエス様が「あなたがたは皆つまずく」という言葉にカッとなって、その後の「わたしは復活した後、あなた方より先にガリラヤへ行く」が耳に入らなかったのでしょう。イエス様は、何度もご自分は復活すると伝えていたのに、結局、誰も信じなかった。ペトロは3度もイエス様を知らないと言ってしまいます。それもイエス様が「あなたは、鶏が二度なく前に、三度わたしのことを知らないと言う」と予め注意しておられたことで、その通りになってしまいました。ペトロは、悔いて大泣きします。青年が「弟子たちとペトロに」とペトロを添えた意図です。

 イエス・キリストの復活は、私たちの傷ついた過去を癒す出来事でもあります。もう取り返しがつかない、悔いても悔い切れないような事柄について、いや、それは終わりではない、まだ有効だ、生きている。だから、諦めてはいけない、ということを教えてくれます。人は皆、死んで全てが終わってしまうと思っているからです。

 人生の様々な悲しみ、苦しみ、未だに解決していない事柄について、イエス様はあの当時もいたし、今もいらして、私たちに回復の機会を与えてくださいます。イエス・キリストの復活は、私たち自身を復活させる機会にもなります。

 では再び会う「ガリラヤ」は、何を意味するのでしょう。当時の弟子たちには指定された地名であり、今の私たちには、復活されたイエス様と会える場所と言えるでしょう。「わたしは先に行っている。そこで、再び会える」とイエス様は言われました。

 イエス・キリストの十字架は、弟子たちにとって希望が消えた出来事でした。しかし、イエス・キリストの復活は、これまでイエス様が語ってこられたことの実現でした。イエス様の復活は、人は死んでも生きることを実証したのです。失望し、混乱していた弟子たちも、ガリラヤに戻りイエス様に再会し、ガリラヤは、敗北と挫折の地から死に勝って新たな希望を抱いて凱旋する町となったのです。

 唱歌「ふるさと」に「こころざしを果たして、いつの日にか帰らん」とあります。志を果たして、生まれ故郷に凱旋する日を夢みることができた時代でした。弟子たちには、まだガリラヤへ帰る意味が分からなかったでしょう。

 弟子たちにとってガリラヤは復活したのです。イエス・キリストの復活により、確かな希望の地となったのです。

 クリスチャンは、やがて地上を去る時「またガリラヤで会おう」と言えるようでありたいものです。様々な経験や思い出が詰まった人生。親子、夫婦、兄弟、親戚、恩師、友人、いつか別れねばなりません。人間は、死の先の希望は語れません。しかし、イエスの復活、私たちの体の復活を信じる者たちは「もう一度会おう」と言えます。死をもって全ての終わりと言う人に希望はありません。しかし、人となられたイエス様が復活されたのなら、そう言うことが一度でも起こったとすれば、私たちも復活します。もう一度会えることを信じましょう。信じないより、信じた方が希望があります。

  ここで、一つの提案をしましょう。

  復活の記事を読んでから、もう一度、マルコの福音書の初めから読みなおしてみましょう。初めて聖書を読むと、どうしてもイエス・キリストとはどんな人物か、本当に復活したのか、と人として来られたイエス様の生涯や歴史を知ろうとします。その結末は、この青年が言うとおりです。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探している。」

 しかし、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と知り、ガリラヤで会えると信じた人は、全く違う視点に立って福音書を読むことができるでしょう。復活して、今もおられる主イエスが、この場において私たちに教えてくださいます。

イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。 

マルコによる福音書 1章14〜15節

 私たちも神の国が訪れていることを認め、悔い改めてイエス・キリストを信じるのです。イエスを信じる者は永遠の命がいただけます。

 イエス・キリストの復活を心から祝いましょう。

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