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2022年4月24日(日)主日礼拝説教(要約)


  説教  愛に恐れはない

                ​吉平敏行牧師


  聖書  マルコによる福音書 20章19〜31節

      ヨハネの手紙 一 4章16b〜21節

 この福音書が書かれた目的は31節に記されます。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」聖書を読んでいる者が、実際にイエスの名により命を受けているかどうかが問われます。

 その「命」を私たちの肉体の命と区分するために、「永遠の命」と呼ぶことがあります。永遠とはいつまでも続くこと、不変です。ですから、「永遠の命」は真理と言って良いでしょう。聖書は、真理である命、命そのものをイエスの名によって受けられると言うのです。

 パウロは、被造物が持っている体を「自然の命の体」(コリント一15:44)と呼びます。イエスも、人としてお生まれになりました。もし、十字架で死んだままであったら、キリストとは呼ばれませんでした。しかし、イエスは三日目に死者の中から復活した。弟子たちに現れ、今も生きておられます。今や、人に命を与える神となっておられる。パウロは、そのようなイエスを「命のある生き物となった」と書きました。そして、イエス・キリストの命を受ける者も、その命のゆえに永遠に生きるというのです。

 人間は必ず死にます。死は未知の絶対他者として目の前に立っています。こちら側の甘い、一切の希望的観測は許されません。

 復活したイエス様は、特殊な体を持っておられました。鍵がかかっていた部屋に現れ、その両腕の釘の跡、槍で刺された脇腹の傷の跡を見た弟子たちは、それは十字架に架かられたイエスであると知ります。しかし、目で見たら信じる必要はありません。復活したイエスを見たのは幸いですが、イエス様は「見ないのに信じる人は、幸いである」と仰っています。今、イエス・キリストを見ないで信じている私たちの方が幸いなのです。

 イエス様が体を持って現れたことは弟子たちのためであり、その弟子たちに、ご自分が命であることを証明し、偽りなく伝えさせるためでした。私たちは、この弟子たちの証言による聖書の言葉どおり、イエスは復活し、今も生きていると信じています。

 復活された主は、神の国の福音を弟子たちに託されました。それが罪の赦しによって、人が新しい命を得る、という福音宣教の使命でした。私たちも福音を聞き、イエス・キリストを信じて、新しく生かされきた者として、イエス・キリストを伝えます。

 全ては、信じることから始まります。信じて、初めてイエス・キリストが、この私にとって意味のある方となってきます。

 クリスチャンになるとは聖書の戒律を守るとか、立派な人間になるとか、優しい人になることなどと誤解しておられる方おられます。そうではなく、全く神を知らず、まことの命も持たず、死んでいたような者が、イエス・キリストを信じて、神による命に生きるということです。救いとは、神とイエス・キリストとを知ることにあります。

 イエス様が弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を受けるよう命じられたとき、罪の赦しについて言われました。聖霊を受けることは、罪が赦されたことの印となります。それをパウロは「聖霊の証印」と呼びました。神(父なる神、子なる神)から聖霊が遣わされ、「あなたの罪は赦された」と、罪の赦しを確信します。

 罪ある人間が罪を赦すことはできません。神に対して罪を犯してきたからです。その罪の赦しの権能を、イエス様は弟子たちに委ねられました。イエスの十字架により人の罪は完全に赦されています。その赦しを伝え、与える権威を弟子たちに託されたのです。神にしかできない業を、人に託されたのです。今や「命を与える霊」は、生かされた罪人の手により、罪の赦しが伝えられています。

 初めはペトロ一人に、復活してからは使徒たちに、さらに多くの弟子たちに、そして今日に至るまで、代々の聖徒たちにその使命を託されてきました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23)は、私たちに語られているのです。

 ですから、救いは罪の赦しです。罪が赦され、神が愛しみ深い方であることがわかれば、裁きとしての死の恐れもなくなります。ただお一人、死者の中から復活したイエス・キリストが死を滅ぼし、「死」を取り去ったのです。死は神に会う、最後の門として、幸いな門とされました。生きている間にイエス・キリストを信じる者は罪が赦されて、神が愛であると知り、死はその入り口となります。

 しかし、イエスが復活された最初の場にいなかったトマスは、仲間の言葉が信じられず、自分が納得したいと思っていました。このトマスこそ、納得を求める私たちの代表でもあります。

 トマスは情の厚い人でした。エルサレムに向かおうとするイエス様に、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言ったのもトマスです。また、父なる神のもとに行こうとしているイエス様に、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(14:5)と、トマスは尋ねます。トマスは真実を知りたかったのです。

 信仰を求めるとは真実を求めることです。信者は、万年求道者であるべきです。私たちは、私たちの理解を超えた神がおられることを、求めることも勧めています。何の奇跡も見ずに信じ、同時に、私たちの信じきれない弱さもご存じのイエス様を知っています。

 トマスが「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」 と言うのも当然です。その言葉の切実さに涙が出そうになります。真剣にキリストを求めるとは、こういう姿勢を指すのか。自分の求めはどれほどであったか。

 それから一週間後の夕方。その時、トマスはいました。やはり、浮かぬ顔をしていたでしょう。そこに、主がお立ちになられた。そして、トマスに向かって「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(27)と言われる。トマスは驚いたでしょう。それは、一週間前、自分が言った言葉への応答だったからです。あの時、主は見えなかった。しかし、そこにおられたのです。見えないからといって、いないわけではありません。トマスはその場で、「わたしの主、わたしの神」と告白します。彼は、もはや自分の指を差し入れる必要はなかったでしょう。

 その時、イエス様は「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われます。「幸いなるかな、見ずに信じる者よ。」見る、実感する、納得する。信じるは、それらを超えています。信じたゆえ、新しいものが見えてくるのです。

 人生は出会いと言えるでしょう。人生に勝つも負けるもありません。多難な人生、不思議と呼べる人生のすべてを振り返って、アブラハムは「満ち足りて死に」(創世記25:8)と記されています。生まれた時から今に至るまで私たちを生かし、様々な出来事を通して、私たちにその存在を考えさせる。そして、聖書に出会い、福音を聞き、そのように生きている人々に出会う。それらすべてがキリストです。そこでイエスに出会い、イエス・キリストを信じて、罪の赦しをいただく。そして、これまで導びかれた神と和解するのです。 「そうだったのですね、知りませんでした、お詫びします」と悔い改めます。

 罪が赦された者は、神が愛であると知ります。ご自分の独り子を私たちに与えるほど、私たちを愛してくださった。神から切り離された罪人に、神ご自身が関わってくださる。それは、人間がだれ一人滅びずに、命をいただくため、つまり永遠に生きるためでした。イエスは死を滅ぼされました。イエス・キリストを信じる者は罪が赦され、裁きとしての死を恐れる必要は無くなります。なぜなら、私たちは死から命へと移されたからです。

 どうかイエス・キリストを信じ、罪を赦していただき、神と和解し、神の愛を知り、心に平安が与えられますように。これでいいのだという安心がいただけますように。裁きを恐れながら生きるのではなく、神に愛されていることを信じ、喜びをもって生きていきたいものです。

イエスが私たちの真ん中に立たれ、

 「あなたがたに平安があるように」

と言っておられます。

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