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2022年5月1日(日)主日礼拝説教(要約)


  説教  壺の粉は尽きず

                 ​吉平敏行牧師 


  聖書  列王記上 17章8〜16節

      ヨハネによる福音書 6章1〜15節

  主イエスが語られた神の国には法則があり、それは「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(マタイ13:33)に最もよく表されています。小麦粉にパン種を加えて、少量の水でよく練り、適度な温度を保ちさえすれば練り粉は発酵し膨らんでいきます。創造主が造られた環境で、適温を保ちさえすれば、パンは大きく膨らんでいくのです。神の国もそのように増えていきます。

 今日の箇所は、神の奇跡を視覚的に描写しており、私たちの想像力を掻き立てます。

  1. 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。(列王記17:16)

  2. 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠

  3. がいっぱいになった。

  4. (ヨハネ6:13)

同時に、気になる言葉もあります。

  1. そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

  2. (ヨハネ6:14〜15)

 マタイとマルコでは、この5,000人を5つのパンと2匹の魚で養った奇跡の少し後に、7つのパンとわずかな魚で4,000人を養った、似たような奇跡を記しています。ただ、後者はパンの増え方が減っています。イエス様は、小学校の算数のような問題を出して、弟子たちに考えさせようとしています。

 「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。」(マタイ16:9 ) 答えは「12」。「また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか」(16:10)答えは「7」。単純に計算して、最初は一人当たり1/1000個、後の奇跡は一人当たり7/4000個 約1.3/1000。一人当たりの量は後の方が多いのですが、残ったパン屑の分量は減っています。イエス様は、その原因を「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」と言われます。その場合の「パン種」とは「ファリサイ派とサドカイ派の人々の教え」です。人々はケチになったのか?分け合おうという気持ちが薄れたのか。弟子たちには、その微妙な変化がわかりません。

 人々がイエスに期待したのは腹を満たすことでした。それは肉体の腹だけではなく、様々な欲求、欠乏感とも言えるでしょう。そういう人々が「朽ちる食べ物」を食べても、また腹が空きます。イエス様が与えようとしておられたのは「永遠の命に至る食べ物」で、そのために働けとも言われます (6:26〜27)。

 イエス様は、人々が求めているのはこの世の王であることを察知し、お一人で山に退かれました。イエス様が伝えようとされた「神の国」と人々が思い描く繁栄とは相容れないものです。人々はイエス様に王になることを期待しましたが、そういう考え方はイエス様の中には全くありませんでした。それは、イエス様とピラトとの会話から読み取ることができます。

  1. イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。 ピラトは言った。「真理とは何か。」

  2.  (ヨハネ18:36〜38)

 イエス様は、群衆がご自分を王にしようとしている動きを感じ取られ、身を引かれました。それでは、神の奇跡は起こらないでしょう。

 私たちは、神の国がどのように膨らんでいくかについて、もう一度聖書の原則に立ち返る必要があります。​

  1. 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

  2. (列王記上17:16)

 私たちが信じ、受け入れたイエス様は「天から降って来た生きたパン」であり、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6:51)と言われている「命のパン」です。肉体を肥やす物質的な食べ物ばかりではなく、私たちの心と魂を養う霊的な食物を必要としています。霊であり、しかも物質をも支配される神の言葉を食べなければ、私たちは枯渇します。

 こうして、イエス様の語られたみ言葉を比喩として、それをどう解釈するかによって神の国は違っていきます。イエス・キリストこそ王であるとして、世の法の中で信仰に基づく正義、自由を掲げ、囚われた人々を自由にする、と語ったところで、世の反発を受けることになるでしょう。あるいは、優しさや思いやりがあり、社会的な立場があるからといって、神の国は膨らみません。教会の中でも福音が福音として語られるよりも、耳触りの良い言葉で語られる話の方に惹かれていくことが多いのではないでしょうか。

 日本キリスト教会は、1951年に日本基督教団を離脱して、2021年に創立70周年を迎え、教会の本来の務めを自覚すべく信仰宣言文を出すことになりました。コロナ禍で手続きが遅れていますが、その文言に「1941年、旧日本基督教会が、戦争遂行のための総動員をはかる国家権力の要求に屈して、教会合同に加わったことに対する罪の認識と悔い改めがありました。ここに、わたしたちは悔い改めを表明せざるをえません」とあります。「国家権力の要求に屈して、教会合同に加わったことに対する罪の認識と悔い改め」が、本当の悔い改めになるかどうかは問われてくるでしょう。

 福音宣教が困難になってきている今、改めて教会は何によって立つのか、立ち続けることができるのかが問われています。

 神戸布引教会は1905年に米国南長老教会宣教師のH.W.マヤス博士の指導の下、神納町で伝道が開始されました。1907年1月10日布引講義所として設立、1911年5月7日に日本基督教会神戸布引教会として独立教会となりました。1959年に日本基督教団を去り、日本基督教会に加入。日本キリスト教会神戸布引教会となりました。1995年1月の阪神淡路大震災で2階の礼拝堂が被災し、全国の諸教会、伝道所、また有志の方々からご支援をいただき、1999年に現会堂を献堂し、今日に至っています。主イエス・キリストの教会に期待し、数々の試練を通り抜け、信仰を引き継ぎ、主の教会の発展に尽くされた聖徒たちに感謝を捧げます。そして、改めて、聖徒たちはいかにして、それぞれの困難な時代を乗り越えてきたのかを考えます。

 未だにコロナ感染の収束は見えてこず、ロシアによるウクライナ侵略が激化し、それぞれの国が自国の安全を優先しながら、できる範囲で対応せざるを得ない状況に陥っています。ロシアが所属するロシア正教会、西側諸国が属するローマ・カトリック教会やプロテスタント教会は、神の国に仕える教会として平和のために国に働きかけて良いところですが、現実に夫々の国に働きかけるほどの力を持っていません。キリストを頭とする教会が、4世紀にローマ帝国により国教化されて以降、世界の宗教として広がってきたのは、結局イエス・キリストを「この世の王」にしようとした発想でしかなかったのではないかとの疑念を抱きます。結果として、主イエスをこの世の王の下におくことになったのです。悔い改めるべきは、その点です。

パウロの警告に耳を傾けたいと思います。

  1.  あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨ませることを、知らないのですか。 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

  2. (コリント一 5:6〜8)

 預言者を通して語られる神のみ言葉に聞き従うならば、主イエスは必ず祝福してくださいます。混沌とした価値観が漂う時代に、神戸布引教会がここに立ち続けるとしたら、悪いパン種を取り除くこと。み言葉に従って、私たちのうちに住まわれるイエス様の言葉に従っていくことでしょう、互いの交わりにイエス様の温もりが感じられる共同体であれば、私たちの心に蒔かれたパン種は、群れとして練られ、大きく膨らんでいくことでしょう。そして、より多くの人々を養っていくことができるでしょう。

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