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2022年5月8日(日)主日礼拝説教


  説教  復活の主に出会う

​                吉平真理教師試補 


  聖書  ホセア書 6章1〜3節

      ルカによる福音書 24章13〜35節

 イエス・キリストのなされたみ業を信じる私たちは、イエスのよみがえりのいのちに与ることが約束されています。この朽ちていく他ない身体に、朽ちることのないいのちが与えられているのです。それを聖書は「永遠のいのち」と呼びますが、毎週日曜日、復活されたイエス様を礼拝するために教会に来ている私たちは、そのいのちの喜びに与っているでしょうか。

 今日のテキストの二人の人物は、その喜びに与っていないようです。復活の知らせを聞いてはいますが、まだ信じてはいないのです。さらに、復活の主ご自身に道すがら話しかけておられるのに、今、出会っている人物が誰なのか分からなかった、というのです。

 今の私たちは、イエス・キリストの復活を知っているだけでなく、聖書の預言も歴史的には成就されたという前提で読んでいますから、ああここでこんな風に成就しているのか、とわかるのです。これはかなり、優位な立ち位置にいると言えます。けれども、私たちにとって今この時に、何が起こっているのか、分かっているのでしょうか。

 み言葉は、信じること以外の方法では、解き明かすことができないように封印されています。熱心に読んだとしてもでも、丹念に研究したとしても、どんなに議論しても、信じること以外の方法では躓くようになっているのです。

そう考えますと、二人の弟子たちが、興味を持って近づいてきた人物が誰だか分からなかったというのも、合点が行きます。

 16節に「しかし二人の目は遮られていた」とあります。なぜかイエス様だとはわからなかった。その理由が、目は遮られていた、というのです。

 ここは、イエス様が復活された日の午後の出来事です。この同じ日の明け方早く、婦人たちが墓に行ってみると、墓の中のイエス様の遺体はなく、輝く衣を着た二人の人が現れて婦人たちにこう告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』と言われたではないか。」(24章5〜7節)私たちは、死んで三日目に復活したという奇蹟の方にばかり気を引かれてしまうのですが、最も大切なことは、「主イエスは生きておられる」ということです。今、この時も、主イエスは生きておられるのです。

 しかし、彼らは復活の事実の前に当惑し、信じられませんでした。墓が空であろうと、天使のお告げがあろうと、イエス様が「三日目に復活する」とお話しになっていたことを思い出したとしても、それでも復活が信じられずに、弟子たちは婦人たちの証言をすら「たわ言」(11節)としてしまいました。イエス様を信じていないわけではない。けれども、彼らが期待していたことは、神の御心とは違っていたのです。イエス様と一緒に旅をし、神の国の到来を伝え、数多くの奇蹟を目の当たりにしながら、復活の知らせは、そのまま受け取れない。信じられなかったのです。

 イエス様は「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、」(25節)と嘆かれています。自分に都合の良いことは受け入れるけれども、「すべて」を信じるわけではない。メシアが「栄光に入る」のは「苦しみを通って」からであるということが抜け落ちている。それにしても、復活の知らせを信じられないその要因は、一体どこにあったのでしょうか。

 それは、現代の私たちが考えるような、「科学的根拠」を理由にするようなものではなかったでしょう。ベタニアの村ではラザロの復活の、またナインの町ではやもめの息子が息を吹き返すという、奇蹟に居合わせていた弟子たちです。それよりも、彼らが思い描いてきた夢が閉ざされたその挫折感、喪失感、自己憐憫、という心情によって心を閉ざしてしまったのだろうと思えます。

 明け方から始まったこうした大騒動の中、二人の弟子は、どういうわけか騒動の中心地であったエルサレムを去って行ったのです。この二人は、約11キロほどのエマオまでの道のりを、「イエス様の亡骸が墓になかった」出来事について、ああだろうか、こうだろうか、と論じながら歩いていたのです。

 すると、そこに一人の人が近づいてきて、彼らと一緒に歩き出します。そして、二人の交わす議論を聞きながら、尋ねたのです。「歩きながら話しをしているのは、何のことですか?」新共同訳聖書では、この箇所にイエス様の名前は12回もあるのですが、原文では、15節の「イエスご自身が近づいて」と、19節の「ナザレのイエスのことです」の2回だけです。話をしている彼らがイエス様だとわからないのですから、イエスという名を補わずに書いています。

 「何のことですか?」そう聞かれて、彼らは立ち止まります。そしてクレオパという弟子がやや驚きながら、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけがご存知ないのですか」と聞き返します。エルサレム中が、この話で持ちきりだったのです。するともう一度その人は尋ねます。「どんなことですか?」イエス様は何も知らないかのように「あなたを煩わせていることはどんなことですか」とお尋ねくださり、私たちの返答を聞いてくださいます。

 「ナザレのイエスのことです。」「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると、望みをかけていました。」(21節)

 心の中の想いをイエス様に打ち明けるのは、大切なことです。そして、思いを打ち明けるとイエス様は、彼らの心の鈍さを嘆きつつも、み言葉を解き明かしてくださいます。聖書の断片的な理解から、み言葉がつながりあって、さらに広く、深く、イエス様の救いのみ業を理解できるようになっていく。これは、今も起こる恵みです。そして望みを失った心であっても再び燃え始めるのです。

 彼らは、その人を無理に引き留めて宿泊を勧めます。そして、食事の席に着き、パンを取り感謝を捧げてそれを裂かれた時に、彼らは、イエス様その人だとわかったのです。パンを裂くそのしぐさに、かつてのお姿を思い出したのでしょう。あの、わずかなパンで5千人、さらに4千人を養ったパンの奇跡を見ていたでしょう。同時にイエス様の姿は見えなくなりました。けれども、イエス様が生きておられることは、もう間違いありません。

 二人は夕闇の中を急ぎます。大喜びで。イエス様に出会った者は、どうしたってそのことを伝えたくなるのです。この復活がわかった、というのはそれほどのことなのです。

 実際、イエス様の復活を告げる場面では、皆が復活を信じられない姿を晒しています。それは、私たちの姿でもあります。復活の知らせは届き、イエス様は今も生きておられるというのに、暗い顔をしてうつむく私たちに「どうしました?どんなことですか?」と尋ねてくださいます。「主イエスは生きておられます。」そのことを信じますか、と問われているのです。

 目に見えないから、実感されないからと言って、いないわけではありません。先週、私が帰神する際に新幹線から富士山は全く見えませんでしたが、いくら見えなくてもそこには確かに富士山があることはわかっています。ですから、眼に見えない方を見るようにして生きるのです。

 しかし、私たちは度々、それを忘れたかのように、あるいは、まだ知らないかのように、生きています。挫折や失意の時に、思いがけない病いや災難に、心配事や悩みの中で、まるで、イエス様は復活しなかったかのように。この方に、捨てられてしまったかのように。そして、おるべきところから離れていこうとするのです。

 ですから、そうする前に、その場で、もう一度、ご自分に語ってみてください。たましいに、言い聞かせてください。主イエスは生きておられる、と。そう信じてきたではないか、と。そうするならば、主は「どんなことですか。」と尋ねてくださいます。だから、胸の内を申し上げましょう。

 イエス様は私たちの心の目、心の耳を開いてくださいます。すぐにではなくても、必ず。主イエスがお語りくださる御言葉を聞くとは、そういうことです。御言葉には命があります。御言葉に命があるとは、それを受け取った私たちのうちに、『育つものがある』ということです。なぜなら、私たちの救い主、主イエスは、よみがえって、今も、生きておられるからです。

 私たちは、それを信じる者たちなのです。

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