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2022年5月15日(日)オープン礼拝説教(要約) 

  説教  命を与えるパン

​                吉平敏行牧師


  聖書  ヨハネによる福音書 6章22〜33節

 聖書は、自分自身をどの位置に置いて読むかで、言葉の意味合いも変わって参ります。それは、イエス・キリストと私たちの位置関係にもなります。

 ある日、イエス様はガリラヤ湖の「向こう岸」、つまり東側で5,000人もの人々を5つのパンと2匹の魚で養うという奇跡をなさいました。その日の夕方、弟子たちは舟に乗り込み、北西部のカファルナウムに向かって漕ぎ始めました。イエス様は、一人で山に上って行かれました。いつものように祈るためです。群衆も、夕方には三々五々散っていきました。

 途中、舟に乗った弟子たちは強い風に悩まされますが、何とイエス様が湖の上を歩いて舟に近づかれ、驚きながらもイエス様と分かると、弟子たちは安心し、イエス様を舟に迎え、舟はカファルナウムに到着します。それが、ここまでの流れです。

 前日にお腹いっぱいのパンを食べて喜び、もう一度同じ場所へ行けば、イエス様に会えると思った群衆は、いつまで経ってもイエス様は現われない。さあ、どうしようかと思っていたところへ、ティベリアスから舟が向かって来る。群衆は、その舟に乗り込み、カファルナウムに向かいました。

 「そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると」(25)となります。ただ、ここの「向こう岸」は、22節の5,000人を養った「向こう岸」のことではなく、カファルナウムを指しています。

 そこで、私たちは戸惑います。ガリラヤ湖の「向こう岸」でパンを食べ、やって来たカファルナウムも「向こう岸」では、位置関係が分からなくなります。私たちとしては、「向こう岸」にいたのなら、カファルナウムは「こちら岸」のはずです。どうして、こんな訳し方をしたのか、また、どうしてヨハネはこんな書き方をしたのか。原意は「反対の側」です。これは、自分の対面と考えるのが良いでしょう。ヨハネは、自分が向かう方向を意図していたようです。

 これが、私たちがイエス様に向かう姿勢であり、位置関係にならねばなりません。いつでも自分を第3者的な立場において、「向こう岸」にいた群衆が、「こちら岸」に来てイエス様に会う、という関係で読んでいますと、いつまで経ってイエス様の言葉は聞こえて来ないでしょう。私たちは、いつでもイエス様を向かっていくべき方向と考え、目の前にイエス様を置き、イエス様に対面しながら未言葉を聞こうとせねばなりません。今、ここにおられるイエス様の言葉を聞こうとして聖書を読んでいきますと、イエス様の声が聞こえてくるはずです。

 群衆は、カファルナウムでイエス様に対面します。「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」(25)。彼らは、イエス様が湖上を歩かれて、相当時間を短縮されたことを知りませんし、想像もできません。もう少し時間がかかると思っていたのです。

 私たちは、再び出会うということについて、さほど深くは問いません。それほど安心できる社会なのでしょう。待ち合わせの時間に相手が来なければ、メールや携帯で確認し合えば良いのです。しかし、突き詰めて考えれば、再び会えるということは、当たり前のことではありません。途中で何が起こるか分からないからです。

 群衆は、前日はガリラヤ湖の向こう岸でパンをいただきましたが、この日は「向こう岸」にイエスはおられませんでした。そこで、舟でカファルナウムへ来た。その向かう先にイエス様はおられました。群衆は、いつでもイエス様から何かを得ようとしてイエス様に向かっていたのです。

 ところが、イエス様は「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26)と言われます。これは厳しい言葉です。彼らは、イエス様に会えれば良い。会えばまた良いものをいただける、と思っていました。しかし、この日はそうはいきませんでした。彼らはいつまも「イエス様がメシア」だとは分かりませんし、知ろうともしません。5,000人を養うパンの奇蹟があっても、イエス様が思いかけず速くカファルナウムに到着していても、彼らには不思議でもなんでもない。事実起こっていることが分からない。もっと確かな印を見せてくれ、というのです。

 キリストに出会うとはどういうことなのか。キリストはどこにおられるのか。それは、神の言葉との出会いです。思ってもみない言葉に出会う時、私たちは立ち止まります。

イエス様はニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われました。彼は、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」などと的外れな質問をします。思いがけない言葉に、彼は戸惑います。

 サマリヤの女にイエス様は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13〜14)と言われます。女は、思わず「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」 とイエス様の謎めいた言葉に引き寄せられます。

 キリストに出会うとは、主の言葉との直接的な関わりです。もし、イエス様が、自分の正面に立って、自分に向かって話されたら、私たちはなんと答えるでしょう。ヨハネが、イエス様に向かう群衆について「湖の向こう岸」と書き、こちら側でも「湖の向こう岸でイエスを見つけると」と書いた意味が分かってきます。自分の対面、向かっていく方向にイエスを見つけるのです。これまで、なんと他人事として聖書を読み、イエス様の言葉を目の前を流れる川ように読んでいたことか。自分の姿勢、イエス様との位置関係を変えない限り、私たちへのみ声は聞こえてこないでしょう。

 その時、イエス様は語り出します。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」

 私たちは、群衆の一人としてキリストに尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」。

 あの時、十字架に架けられたイエスはおられない。しかし、復活されたキリストは、霊として今も生きておられる。場所を変え、今やこの場におられる、その霊である主に対面しています。主は、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われます。今や、教会に働かれる神の霊がキリストです。

 私たちは、「神が遣わす」御子、聖霊、霊の賜物によって主の教会に仕える人々の働きによって、信仰生活が守られています。私たちは、背後にある様々な配慮にまで思いは行き届きませんが、不信仰を悔い改めて、「主よ、信じます」と告白するところから信仰生活は始まります。私たちが、どういうところに神が遣わされたものを見るかです。

 イエス様は、「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない」と言われました。イスラエルの人々は「密の入ったウェファースのような味がした」マナを40年間も食べ続けました。マナは、超自然的ではありましたが、実在した食べ物です。神がマナでイスラエルを養ったのです。イエス様が「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」と言われたパンは、あの時はマナであり、イエス様の時代は5,000人を養ったパンであり、今の私たちにはイエス・キリストです。もうマナではなく、増えたパンでもなく、神の御子イエス・キリストです。この神が送ってくださったパンを取って食べる者は、永遠に生きるのです。

 群衆はようやく「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と求めました。そこでイエス様は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と明言されたのです。

 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。さて、私たちはイエス様のこの言葉をどう聞くのでしょう。私たちが、ここにおられるイエス・キリストに対峙する時、その言葉は私たちに語られる神の言葉として、命をもって働き始めます。

 神が遣わされた聖霊を信じること、信じさせていただけることが神の業、神の奇跡であります。

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