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2022年5月29日(日)春のオープン礼拝II説教(要約) 

  説教  何たる時代よ

               ​吉平敏行牧師


  聖書  マタイよる福音書 17章14〜20節

 ここのイエス様の言葉は、そのまま、今日の教会、今日に社会に当てはまるでしょう。もう、うんざり、いつまで、あなたたちと一緒にいなければならないのですか、と言わんばかりです。

 今日の鬱積した不満は、いたるところに現れています。教会ばかりではありません。役所、病院、介護施設、会議でも、居酒屋でも。Zoom、ソーシャル・ディスタンスなど、英語やカタカナが氾濫しました。気がついたら、社会は大きく変わっていました。自分を主張する人たちが増えています。 何か変だと思っていたところにロシアのウクライナ侵攻。もはや世界も国内も法が健全に機能しなくなっている。持って行き場のないフラストレーションが溜まってきています。

 このてんかんに苦しむ息子の父親は、それらしき群衆を見つけ、イエスの弟子と思われる人に声を掛けたのです。「この子は、てんかんでひどく苦しんでいます。何度も、火の中や水の中に倒れるのです。なんとか治してくださいませんか。」ところが、その弟子には治せそうにない。次の弟子のところへ行って同じ説明をするけれど、治せないと言う。救急車が来てくれたは良いけれど、受け入れ先が見つからず、タライ回しにさせられる。そんな今日の光景を思い出します。

 現代は問題が多岐に及び、一旦自分に問題が起こったら、誰のところへ持って行ったら良いのか分からなくなっています。家族も面倒臭がる。今日の「何という時代よ」の題も、そのあたりを考えました。

 そこに3人の弟子たちと山から降りて来られたイエス様が見えました。ペトロ、ヤコブとヨハネの3人は、高い山の上で、イエス様の姿が燦然と輝く場面を目撃していました。そこに、死んだはずのモーセやエリヤが現れ、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に叶うもの。これに聞け」という神の声がある。弟子たちは恐れをなしてひれ伏しました。帰り際、弟子たちはイエス様から「わたしが死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と口止めされ、群衆がいる場所まで戻ってきたのです。

 イエス様を見つけた父親は、その場に跪いてお願いします。「主よ。息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れてきましたが、治すことができませんでした。」弟子としては面目丸潰れです。

 イエス様のがっかりした声が聞こえてきます。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」イエス様は、この父親を責めているのではありません。不甲斐ない弟子たちを嘆いているのではありません。不信仰な時代、ねじ曲がった時代を嘆いているのです。

 松任谷由実が「やさしさに包まれたなら」という曲の中に、「小さい頃は神さまがいて、不思議に夢を叶えてくれた」というフレーズがあります。確かに、昔は神と呼べる恐れるものがいました。今は「神を恐れぬ時代」とも思えます。イエス様は「よこしまな時代」と言われます。「ねじれた」「ねじ曲がった」という意味です。

 こうした問題を正しく取り扱ってくれるところはどこにあるのか、ということです。イエス様は言われます。「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」主は「ここに」、私のすぐ横に、とその場所を示されるのです。

 イエス様は、その息子を癒されました。てんかんの原因を悪霊であるかのような訳は今後検討されると思いますが、当時の社会ではどうすることもできない症状を呈していたのです。大切なことは、イエス様がおっしゃられた、その気の毒な息子を「ここ」「わたしのもと」に連れてきなさい、ということです。

 では、「イエス様のもとへ」とはどういうことでしょう。このイエス様のところへ直接連れて行きなさい、ということです。それに代わる、今日的な解決策ではなく、イエス・キリストご自身の元へということです。自然の素晴らしさには感嘆しながら、それらを創造された方を認めない人間。人生の目的も、なぜ死ぬのかも、そうした人生の一切をご存じの方。罪があるゆえに全く神から切り離され、死んでいたとされる私達のために、神への道を作ってくださった方。その方が、罪の身代わりとして死なれ、三日目に復活され、今も生きておられる。神は裁きの神ではなく、私たちを愛して、自分の息子の命さえも与えてくださるほどの愛の神であるということ。そんな神を教えてくれたイエスのもとに、一切を持ってきなさい、と言われるのです。

 イエス様がお叱りになると悪霊は出て行って、その子供は癒されました。弟子たちはイエス様にそっと尋ねます。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」

 これは神学的な説明を求めているのではありません。イエス様の答えは簡単です。「信仰が薄いからだ」元の意味は「小さな信仰」です。では「信仰」とは何か。イエス様は「からし種一粒ほどの信仰」と言われる。からし種は小さいものの代名詞として言われますが、大切なのはたとえ小さくても命がある。信仰はあれば、命があるのです。イエス様は「天の国はからし種に似ている。人がこれをとって畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(マタイ13:31)と言われました。そんなからし種一粒ほどの信仰がありさえすれば、この山に向かってここから、あそこに移れ、と命じてもそのとおりになる、と言うのです。

 イエス様の変貌を見ていた3人の弟子たちは、もしかしたら、それもできるかも、と思ったかもしれません。しかし、イエス様はもっと大きな、ありえないことを語っていたのです。「人の子が死者の中から復活する。」山を動かすより、死者が復活する方があり得ないことです。

 イエス様はしばしば、私たちが想像できる最大級の例えをなさいます。山に向かって「ここから、あそこに移れ」と言ったら、そのとおりになるもそうでしょう。あるいは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言われました。つまり、最大級の愛を「友のために自分の命を捨てる」と比喩で示されたのです。それにしても、全く起こりそうにないことが「死者の中からの復活」です。

 私たちは、何をもって信仰と呼ぶのか。本物の信仰は、神が与えてくださるものです。自分の経験で聖書の信仰を置き換えてはなりません。神の国の信仰は、からし種一粒ほどの小さなものであっても、一旦、心に蒔かれたら大きな木に育つのです。その種の中に、私たちを愛して、ご自分の命まで捨ててくださったイエス・キリストの命が込められています。だから、パウロはこう言います。

  1. たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

  2. コリントの信徒への手紙一 13章2節

 「山を動かすほどの信仰」を「完全な信仰」と書きます。しかし、そんな「完全」な信仰があったとしても「愛がなければ、無いに等しい」と言うのです。イエス・キリストの十字架と復活を聞いていても、そこに神の愛を見出さなければ空しい理屈となります。

 てんかんで苦しむ息子を気の毒に思い、なんとしてでも治してあげたいという父親の愛に、イエス様は応えてくださったのです。イエス様は、この父親を気の毒に思われたのです。自分の息子が困っている。伴侶が苦しんでいる。友達が死に直面している。主イエスは、「その人を、ここに、わたしのところに連れてきなさい」と言われます。主は応えてくださいます。しかし、イエス様の元にその人を連れて行くのは私たちの務めです。

 信仰は大きいか小さいか、強いか弱いかではない。信仰はあるか、ないかです。死者の中から復活したイエス・キリストを信じることが完全な信仰です。この信仰を得た者は、もう他のことを求めようとはしないでしょう。それで、十分だからです。

 ヨハネはこう記します。

  1. 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

  2. ヨハネの手紙一 5章3〜4節

 私たちの信仰は、世の様々な価値観に打ち勝った勝利のしるしです。それを、イエス・キリストが与えてくださいました。

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