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2022年6月5日(日)主日礼拝説教(要約) 

  説教  神の霊を知る

                 ​吉平敏行牧師


  聖書  コリントの信徒への手紙 一 2章1〜16節

 ペンテコステは、ギリシア語で数字の50を指すペンテコンタからきています。日本語では「五旬節」と訳されます。ペンテはギリシア語で5で、アメリカ国防省の建物が五角形をしていることからペンタゴンと呼ばれることはご存じのとおりです。

 そのペンテコステは、ユダヤ人の「刈り入れの祭り」(出エジ23:16)「小麦の収穫の初穂の祭り」(同34:22)とも呼ばれる、その年の麦の収穫を祝うお祭りです。日本の11月23日の新嘗祭のようなものです。

 キリスト者は、ペンテコステは聖霊降臨、教会が生まれた日と教えられていますが、もともとユダヤ人の祭りです。ですから、使徒言行録2章では、その日に世界中からユダヤ人たちがエルサレムに集まってきています。ペンテコステはキリスト者の祭りではなく、ユダヤ人の祭りであった、ということです。その祭りの祝い方はレビ記23章に記されています。それは「イスラエルの人々が聖なる集会に召集すべき主の祝日」の一つとして、安息日の翌日に祝われます。

 「あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。各自の家から、十分の二エファの上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を携えて、奉納物とする。これは主にささげる初物である。」(レビ記23:15〜17)

 重要なポイントの一つは、「安息日の翌日」の祭りである、ということです。過越祭から満7週間を経た“翌日”の50日を数えたならば、と50日(ペンテコステ)が出てきます。労働を禁じられた安息日から、一切解禁となる日曜日への転換です。

 もう一つは、過越祭の翌日から除酵祭となり、家中から酵母を一切取り除くように命じられています。ところが、ペンテコスでは「十分の二エファの上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個」と書かれています。人々は、過越の酵母の入らない種なしパンから酵母を入れて膨らんだパンを堂々と食べられるようになります。麦が色づく麦秋と呼ばれる今頃、収穫したばかりの初物の小麦に酵母を混ぜて練りこみ、パンを焼く。そのパン二つをとって最上の捧げ物として奉納するというのです。女性たちはこの日をどれほど楽しみに待ったことでしょう。家族にとっても喜びの祝いです。

 こうして、ペンテコステは初物を捧げるお祭りですから、私たちも捧げ物、献金をします。本日の聖餐式では教会員のお一人が焼いた手作りパン2個を用いています。またペンテコステ献金の袋もあり、まさにペンテコステにふさわしいセッティングとなりました。

 ですから、ペンテコステは、旧約から新約への転換、ユダヤ教からキリスト教への転換点、労働を禁じた安息日の土曜日からキリストによって掟から解放された喜びの日曜日へと、神の約束の連続性と新しさを見ます。質的に、全く新しいライフスタイルが始るり、と言って良いでしょう。そこに聖霊降臨があるのです。

 では、ペンテコステを新約聖書の視点から、どのように理解したら良いのでしょう。2,000年前に、聖霊を受けた弟子たちが世界各国の言葉で話し始めました。そして使徒たちが書き残した聖書は、今や世界中の言葉に翻訳され、私たちも日本語訳で聖書を自由に読むことができます。聖霊降臨によって誕生した教会の歴史があって、様々な働きがあって今日の、この礼拝を捧げることができています。

 今日のコリント一2:11〜12に「人の霊」「神の霊」「世の霊」という言葉が出ています。神が霊であるとは聖書が一貫して言っていることです。イエス様は「わたしを見た者は、父を見た者だ」(ヨハネ14:9)とおっしゃいました。そして、イエス様は父なる神にお願いして、弁護者、助け手を送ると言われました。それが聖霊です。聖霊は真理の霊(15:26)と呼ばれ、世の誤った神理解を正します。聖霊なくしては、神の神秘は何一つ解き明かされません。

 パウロは「人の霊」についてコロサイの信徒への手紙2章5節で、こんな書き方をしています。

  1.  わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。

 肉体は別のところにある。しかし、霊においては「あなたがたと共にいる」。そして「あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んで」いるというのです。これは、人の心理というよりも、人がどのような霊的な状態で生活しているかを推察するのが霊の働きと言った方が良いでしょう。

 聖霊は、一人の神から遣わされた霊である神ですから、聖霊をいただいているキリスト者は同じ考え方ができるはずです。もし、キリスト者が、人の霊によって生きるのではなく、神からの霊、聖霊によって教えられ、導かれていくならば、教会は一つになるはずです。もし、そうなっていないとしたら、私たちの聖霊の理解、神の霊の理解が間違っているのでしょう。人は人の霊によって知ることができるように、神を知るためには神の霊を必要とするのです。 

 「世の霊」は「神の霊」を拒みます。その「世の霊」とは「自然の人」のことでもあります。人は自然の秩序に生まれ、世の霊を受けて育っていきます。クリスチャン・ホームに生まれたからといって、自然に神の霊を受けることにはなりません。子供たちが育っていく社会、学校教育が「この世」に属する霊で動いているからです。子供たちばかりではなく、大人も世の神に逆らう霊の影響下にいるのです。教会を離れてしまっている子供たちを取り戻すためには、私たち親の信仰が未言葉によって整えられない限り、難しいでしょう。パウロはこう言います。

  1. この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(2:8)

 あなたがたは、既にキリストを知っているのではないか。あなたがたは栄光のキリストを知っている。にもかかわらず、世の不従順な霊に惑わされ、生まれながらの人のように、神の霊を拒み、再び、今度は栄光のキリストを十字架につけようとしている。それは、イエス・キリストの十字架の意味がわかっていないからであるというのです。パウロは自分についてこう言います。

  1.  なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。 (2:2)

  ペンテコステは、聖霊降臨による古さから新しさへの転換であり、新しいライフスタイルの始まりを意味します。それは、「種入れぬパン」から「酵母を入れたパン」への転換であり、安息日から日曜日を守ることへの転換です。規則に縛られた生活から、罪から解放された感謝の礼拝となり、本当の意味で礼拝が祭りとして祝われる日なのです。パウロはこう言っています。

  1. いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

  2. コリントの信徒への手紙一 5章7〜8節

 神の霊、聖霊に導かれていくところに自由があり、そこに、イエス・キリストのご人格というか、神の人柄、私たちとの生きた交わりが回復していきます。イエス様のように、「天のお父様」と素直な心で、呼びかけ、祈ることができます。主は、わたしたち人間の弱さ、愚かさ、おごり、高ぶりもご存じです。また、人を思いやる優しさ、愛情も含めて、私たちを神の像としての人間らしく育てていってくださるでしょう。

 パウロは「キリストの思い」という言葉を用います。「キリストの心」訳す聖書もあります。私たちの生活に、イエス様の心が反映されるようになり、理屈ばかりの冷たい宗教から愛しみを感じさせる宗教に転換させたいものです。

 ヨハネは手紙で「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」と言い、

  1. イエス・キリストが肉となって来られたということを告白する霊は、すべて神から来たものです。このことによって、あなたがたは神の霊がわかります(4:1〜2)

と書いています。

 主イエスが遣わしてくださった聖霊によって、聖書の言葉を正しく理解し、新しく生かされた者として歩んでいきたいものです。 

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