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2022年6月12日(日)主日礼拝説教 

  説教  新しい霊、新しい心、新しい群れ

                  ​吉平真理教師試補


  聖書  エゼキエル書 36章25〜38節

      使徒言行録 2章1〜13節​

 使徒言行録2章には、イエスの弟子たちの宣教の開始と教会の誕生とが、どのように起こっていったかが記されています。イエス様はまず、弟子たちにこう約束されていました。

  1. エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水の洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。

  2. 使徒言行録1章4節


  3. あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、ユダヤとサマリヤの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

  4. 使徒言行録1章8節

 弟子たちはいつものように、使徒たちを中心に集まっていました。1章14節には、「心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。皆で熱心に祈りながら、イエス様から聞いた「父の約束」を待っていたのです。男女が一堂に介して祈るという習慣は、当時のユダヤ人にはなかったにもかかわらず、彼らは「心を合わせて」「一つになって」祈りました。そして、群れの体制を整えながら、主のお言葉に従い、父からの約束を待ったのです。イスカリオテのユダに代ってマティアを復活の証人として選び、使徒の仲間に加えました。これらが、あの出来事が起こる舞台裏でした。

 その日は、ユダヤ教で五旬祭と呼ばれる過越祭から五十日目に当たり、その年の初物の感謝を捧げる日でした。世界各地に離散していたユダヤ人も大勢エルサレムに戻ってきていました。すると、突然、激しい風が吹いてくるような音が聞こえてきました。上空から轟音が近づいてくると、彼らが集まっていた家中に響き渡り、そこに集まった者たちに炎のような舌が現れると、一人一人の上にとどまったのです。

 この物音のゆえに、大勢の人々が集まってきました(2:6)。そしてやって来た人々はそこで、イエスの弟子たちが、それぞれの国の言葉で「福音」を語るのを聞くことになります。その状態は、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままにほかの国の言葉で話し出した」(2:4)というのです。

 聖霊は目に見えません。それで神は、人が認知できる目に見える現象を起こされたのです。そしてルカは、この不思議な現象を体験した弟子たちの内側に起こった「目には見えない出来事」を、聖霊に満たされた、と説明したのです。

 イエス・キリストを信じた者には聖霊が送られ、その人は聖霊に満たされます。「聖霊の洗礼を受ける」とか「霊を注ぐ」、「聖霊に導かれる」とも言われます。何か特別な高揚や感動が起こる特異な現象だけを指すのではありません。大切なのは、この出来事を境に、どの国のどんな人々も、福音を聞くことができるようになったことです。それは、今も変わりありません。これが、かつてイエス様が「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊の洗礼を授けられる」(1:5)と言われたことでした。

 この後に続くペトロの説教を読んでいきますと、つい3年前までガリラヤで漁師をしていた人で、しかも、イエス様が十字架にかかる前の晩には、この方を知らないと三度も否定してしまった、あのペトロなのか、と思うほどです。この彼に、恐れはありません。ペトロは「声を張り上げて」(2:14)ユダヤ人に向けて説教します。主イエスの復活を語り、あなたがたが十字架につけたイエスは神がお立てになったメシアだった、と悔い改めを迫る説教に、人々は心を打たれ恥じ入ったのです。

 ペンテコステの朝、ペトロにあったのは、あの過去の出来事はすでに赦されているという確信であり、赦されて神に義とされている確信であり、聖霊の力に押し出されて新しく福音を生きる確信でした。

 それが、イエス様が言われた「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」の成就でした。この出来事を聖霊降臨、ペンテコステと教会は呼ぶのです。

 皆さんは、聖書が記す「霊」という言葉が、ヘブル語でもギリシャ語でも「風」や「息」を表すことをご存じだと思います。旧約聖書では、神はたびたび「風」とともに登場されています。主がヨブに語りかけられたのも「嵐の中から」(38:1)でした。

 イエス様も、霊と風について仰っています。ある晩、ご自分を訪ねてきたニコデモに、イエス様はこう言われます。

  1. 風はその思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。​

 風は見えないけれども、その成せる業は分かる。霊もまたそうなのです。

 人の心に福音を伝える働きは、聖霊なる神の働きです。福音が語られ、その意味が明らかにされていきます。そして、イエス・キリストがまことの神であることを信じる人々が起こされます。人の心に、神に対する悔い改めが起こされるのは聖霊の働きです。そして、人を、新しく生み出すのも聖霊の業です。そして、霊において新しく生まれた人々が集まり、キリストの体としての教会が起こされます。人の組織力で教会が、生まれたのではありません。教会の実質も、聖霊ご自身にあるのです。聖霊が降る、聖霊をいただく、という出来事は一つですが、それが持つ意味は多様です。

 その中から、今日は最後に、エゼキエル書から聖霊によって新しくされるという約束について触れてみたいと思います。

  1. わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

  2. エゼキエル書36章26・27節

 背景となる紀元前六世紀、エルサレム陥落前、まずイスラエルの貴族や高位高官、祭司など、要職に着いていた者たちがバビロンに連れて行かれました。若い祭司エゼキエルもその一人でした。やがて捕囚の地にあってバビロンの土着の宗教を選ぶ者がでてきます。それは、バビロンで生き抜くため、経済的利益と安定を追い求めるあまりに、先祖アブラハムの神、生ける真の神を顧みない者たちが現れていったのです。商売や取引があり、安息日を守ることもなくなりました。

 神はこれを厳しく批判され、これは「聖なる神の御名を汚した」ことだと憤られました。本来ならば、神に背き、自分の利益を求めて神を忘れ、偶像社会に溶け込み、神の名を汚した者たちは断罪されるのですが、そうではなく、神はイスラエルの民に、これまでにはなかった新しいことを行う、と宣言されたのです。それが26節です。

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

 「石の心」とは、頑なで、神の言葉を受け付けずに、自分の考えを是として生きようとしている者の心を表していると言えます。この頑さは、簡単に取り除いたりできないものです。それゆえ、神が「石の心」を取り除いて「肉の心を与える」と約束してくださったのです。「肉の心」とは柔らかな心、温かな心、素直に受け入れることができる心です。イエス様が言われた「幼子のような」心です。神が何を求め、何を期待しておられるか、それを素直に聴こうとする心のことです。

 さあ、これで、あなたがたは新しくなる。新しいわたしの民だ。そして、わたしは、あなたがたの神だ。(36:28)

 そして約六百年後の五旬祭、エルサレムは、神の憐れみにより、聖霊によって建て直されていました。この日、ペトロの説教を聞いた人々は、大いに心を打たれて自分たちはどうしたら良いのか、と彼らに尋ねています(2:37)。その日、悔い改めて洗礼を受けた人、約三千人が加わりました。主イエスが最後の晩餐の席で「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と仰ったお言葉どおりになったのです。

 イエス様は天に昇られ、その代わりとして聖霊が遣わされ、今、私たちは、この聖霊なる神に導かれて生きています。その聖霊なる神が、私たちに神の言葉を与え、その意味を明らかにし、確信を持って神の御業について語らせてくださいます。

 私たちには、罪が赦されているという確信はあるでしょうか。もしあるのであれば、主から新しい霊をいただいた者として、新しい柔らかな心で、み言葉に従っていきたいものです。私たちの教会が、一つの霊のもと、福音の言葉を大胆に語れるように、私たちも心を一つにして祈る者たちとなろうではありませんか。ここから起こる、主の御業に期待したいと思います。

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