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2022年6月19日(日)オープン礼拝説教 

  説教  もう、渇くことはない

​                 吉平敏行牧師 


  聖書  ヨハネによる福音書 4章1〜15節​

 物であれ人であれ、その出会いには、何か不思議なつながりを感じます。人はそれを「ご縁」と呼び、神を知る者たちは、そこに万物を造られた方のご計画があると知っていますから「御心」とか「導き」と呼びます。そうした出会いは偶然ではなく、いくつかの複雑なつながりがあって、必然と呼べる出来事でもあります。今日のイエスとサマリアの女との出会いは、「サマリアを通らねばならなかった」(4)と、敢えて「ねばならない」という強い、必然性のある言葉で書かれています。

 イエス様の側には、ファリサイ派の人々との論争を避けるため、ユダヤ人たちは通らないサマリア・ルートを経てガリラヤへ向かいました。そこには、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないから」(9)という民族的背景があることを示しています。これが、イエス様がこの場所にいた理由の一つです。

 一方、この女性にも「正午ごろ」に水を汲みに来る理由がありました。この女性はなるべく人に会いたくなかった。そこで人が行かない正午ごろを選んで来ていたのです。彼女にも、その時間にそこに行く理由がありました。 

 そこで、イエス様の方から「水を飲ませてください」と話しかけます。ユダヤの男らしからぬ頼み事は、女性を安心させたかもしれません。すると、女性は、「どうして、ユダヤ人の男のあなたが、女のわたしに声をお掛けになるのですか」と尋ねます。話全体からするとそういう上品な話し方ではなかったでしょう。とにかく、ユダヤ人男性とサマリアの女性とが二人で話すなどということは考えられないことでした。

 その時、弟子たちは食べ物を買いに町に行っていましたから、イエス様は、ご自分で自分を説明するしかありません。「もしも、あなたが、今、目の前であなたに『水を飲ませてください』と頼んでいる人間がだれであるか知っていたら、あなたの方がわたしに生きた水を求めたはずだ」と言うのです。これは、お願いする側の言葉ではありません。しかし、自分を客観的に述べるなら、そういう言い方になるでしょう。その女性に必要なものを与えたいという思いから、与える側としてこういう言い方をするのでしょう。女性は、その「生きた水」に惹かれたのです。

 そこで、女は切り返します。「その『生きた水』もいいですけど、あんたは水をくむ物も持っていないじゃないですか?この井戸は深いんですよ。あなたは、私たちの先祖ヤコブ様よりも偉いとでも言うんですか?わたしたちは、ずっとこのヤコブ様の井戸から水を汲んで、子々孫々生活しているんですよ。」こうなると男も女も関係ない。すると、イエス様は、「この水を飲んだところで、みんなまた喉が渇くだろう。しかし、わたしが与える『生きた水』を飲む者は決して渇かないのだ。わたしが与えるその水は、その人の内で泉となって、永遠に湧き出る水となる」と仰る。これは、深い、宗教的な意味を持つ言葉です。私たちの心や魂は、こういう言葉に感動します。「生きた水」「永遠の命に至る水」。もし、本当にそういう水があるなら欲しいと思うでしょう。

 すると、彼女は少し謙虚に「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」とお願いしたのです。彼女の心も落ち着いていきました。

 「もう、ここにくみに来なくてもいいように」との言葉に、日常生活の辛さが滲み出ています。毎日、毎日どれほど運んだことでしょう。自分は水汲みかと思うほどの日々です。こんなことをずっと続けるのか。もし、その「生きた水」なるものが、その苦しみから解放してくれるのなら、それが欲しいと思ったのです。ここで関係は逆転します。初対面で水を求めたユダヤ人の男に、サマリアの女が自分から「生きた水」を求め始めたのです。

 今日は、この女性が負っていたような肉体労働、古い女性観から解放されて、一応は自由に物が言える社会になってきています。生活も便利になりました。それで自由になったか、時間のゆとりができたか。情報量が多くなって。むしろ忙しくなっています。私たちの心も渇いています。私たちにも、「生きた水」が必要です。女性は、ついにその水を求めることにしました。

 ところが、話は急転直下、この女性の実生活に変わります。イエス様は「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われるのです。女は「わたしには夫はいません」と答えます。

 これはもう、ドキドキの箇所です。もし、この場面の女性の顔を映し出すとしたら、どんな表情を作るのでしょう。キッ、と厳しく睨め付けるのか。思わず顔を曇らせ、伏させるのか。イエス様の言葉に、この女性は息を飲んだでしょう。ご主人や奥様がまだ教会に来ておられない方にとっては、ドキリとする言葉でしょう。そして、答えに窮する。次に反感を抱く。それは個々人の問題であろう、と反発するでしょう。

 信仰とは「永遠の命」や「真理」を探求することであって、現実の問題は、それぞれが取り組む課題だと反論されるかもしれません。イエス様の言葉は、考えたくないことを指摘したのです。そういう個々の問題が、私たちの心の平安を奪っているのです。信仰とは、「あなたの心をかき乱し、落ち着かなくさせている現実の問題に取り組む、勇気と知恵を与えるもの」です。あなたが今、一番、気にかかっている問題を、わたしのところに持ってきなさい。それをはっきりさせなさい、とイエス様は言われます。

 イエス様は、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言われます。これは、彼女を責めているわけではないでしょう。彼女の大変さ、無念さをご存じです。そこで、イエス様は「夫はいませんとは、まさにそのとおりだ」と認め、そして「あなたは、本当のことを言った」と仰います。彼女の正直さを褒めたのです。いつも周囲の人から後ろ指を指され、噂され、陰口を叩かれ、冷たい視線を浴びせられる。誰一人、「大変ね」とは言ってくれない。どうせ、嘘をついている、と言われる。そんな彼女に、イエス様は「あなたは、正直に話した」と、その姿勢を褒めたのです。この一言が、どれほど彼女の荷を軽くしたことでしょう。

 私たちが礼拝に来るのは、私たちに真実を語られるイエス・キリストの声を聞きたいからです。世間話が聞きたくて来るのではありません。どちらかといえば、大変な状況を堪えながら礼拝にきている人に会ってホッとすることがあります。成功した人、強がりの人ばかりの教会は、どこか冷たい感じすらします。あなたがもっと努力すべきだ、と言われているような気がするからです。なぜこの時代に生まれたのか、なぜこんな苦しみや悲しみを抱いてでも生きていかねばならないのか。そんな悩みを抱えたまま礼拝に出ています。誰もあなたを責めません。どんな深刻な罪を犯していたとしても、イエス様は「わたしも、あなたを罪としない」と言われます。

 女性は立ち去って、彼女を知る近所の人々に自分から口を開いて「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます」と伝えました。彼女の晴れやかな表情を思い浮かべることができるでしょうか。自分が本当に必要とする救い主を探し当てた、その方に出会ったという喜びでした。

 彼女は、イエス様に「わたしは、キリストと呼ばれる救い主が来ることは知っています。その方が来た時には、一切を知らせてくれることになっています」と言いました。イエス様は彼女に、「それは、あなたと話しをしているこのわたしである」(26節)と、御自身がキリストであり、その生きた水を与えることができる人物であることを明らかにされたのです。

 私たちは、自分の心や魂を生かすのはイエス・キリストであるということを知っています。そして、心に渇きを覚えた時には、一人聖書を読み、時に祈り、あるいは家族や友人に相談し、時には気分転換したり、ぼんやりと時間を過ごすこともあります。キリストを知っていることが、「生ける水」を頂くことだと知っています。

 今日、イエス・キリストに出会えたことは偶然ではありません。「いのちの水」を与えることのできる方に「主よ、渇くことがないように、その水をください」と祈りましょう。

  1. 渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。

  2. ヨハネによる福音書 7章37〜38節

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