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2022年6月26日(日)主日礼拝説教(要約)


  説教  霊が群れを育てる      

                 吉平敏行牧師


  聖書  ヨハネによる福音書 16章4b〜15節

      コリントの信徒への手紙 一 12章1〜11節

 「霊」あるいは「霊的」は分かりづらい言葉です。1節の「霊的な賜物について」とは「霊的な事柄について」と訳せます。パウロが「霊」を取り上げたのは、コリントの信者たちの間に、霊の理解についての混乱があったからでしょう。特別に霊の感化を受けたかのように誇る信者もいたでしょう。それが争いの種になっていたのです。神の霊に活かされる信者、その信者によって成り立つ教会は、正しい霊の理解から生まれます。

 使徒ヨハネは、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」と書いています。(ヨハネ一4:1〜2)神の霊は識別できるのです。

 今日のキリスト教でも、教派によって霊の解釈に幅があります。パウロは「病気をいやす力」また「奇跡を行う力」「預言する力」「霊を見分ける力」「異言を語る力」「異言を解釈する力」(12:9〜10)を挙げていますから、いわゆる超自然的な現象も否定できません。しかし、「神は無秩序の神ではなく、平和の神」(14:33)でもあります。

 2節の「あなたがたがまだ異教徒だったころ」という言葉から、コリントの信者たちが、かつて土着の宗教にいたことを示しています。宗教は、まず文化として触れていきます。法事や葬儀で仏教に触れ、初詣、お祭りで神道に触れ、クリスチャンホームであればキリスト教に触れていきます。

  注意したいのは、霊は無意識の中で働くということです。パウロは、一つの霊の目安というより、確かな事実として、「イエスは主です」という告白は聖霊によるものであると断定します。

 申命記にも霊の識別が可能であることについて書かれています。

  1. あなたは心の中で、『どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか』と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。

  2. 申命記18章21,22節

 パウロの時代は、誰でも聖書を読めるような時代ではありません。パウロを信頼し、パウロから聞いた話を信じて、イエス・キリストを信じて洗礼を受ける。洗礼を受ける前に、確認はしたでしょうけれど、それ以上の学びはなかったでしょう。ですから、福音から離れていった人々がいました。教会はその後、様々な迫害の歴史を経ていきますが、結局、信仰とは、自分の救いが本当に神からのものかどうか、ということになるのです。

 福音を聞かなければ、物を言わない偶像のところに行ってしまう。しかし、イエス・キリストを信じた人たちが集まる中に加わり、そこで福音を聞いて、イエスを信じるというのは、聖霊の働きなくして起こりません。その場に導かれるのも神の霊です。

  信仰は「信念」ではありません。心に一点の曇りなく信じることを求めているのではありません。むしろ、正しく神を知ることを求めます。救いに至る道筋ははっきりしていて、神は、実際に人が救われる道を御子イエスによって備えてくださったのです。

 神は霊ですから見えません。声が聞こえるわけでもありません。そういう意味では、偶像と同じようですが、神の霊は、人に働き、信じた人々に神の理解の一致を与えます。偶像社会で自分勝手な神を思い描いているのとは全く異なります。そもそも、八百万の神というのは、頂点に立つ存在を神とするという神の基本がわかっていないことによります。偶像社会では、その神と神の競争が生じるでしょう。そうした人間の欲の現れが偶像崇拝であり、行き着くところは性の堕落です。金の偶像を作って拝んだイスラエルの民は、祭りで飲み食いし、乱痴気騒ぎになって裁かれました。パウロも、その点を指摘しています(10:7)。

 霊に関する問題が日本の教会には混在しています。キリスト教的な雰囲気の中では個人主義的傾向が強くなりがちで、我儘と言われそうなことも、寛大で、互いに愛し合うという教えにかなっているかのように容認される傾向もあります。

 聖書が伝える信仰は、確かに個性や多様性を尊びます。と同時に、その信者が一つの群れをなすという一体性は大切なメッセージです。従って、今日の中心テーマは、多様性と一致と言えるでしょう。

 信者がイエス・キリストは主であると告白できるのは聖霊によるもので、唯一の神だから一つに集まることができます。どうして、声も聞こえないのに、一つとなれて、そこに秩序があるのか。そういう一つの共同体、それがキリストの体、教会で。強いて一致させるのでもなく、一つにしようとしたりするのでもなく、「イエスは主である」と告白する者たちが聖霊によって教えられていくのです。

 パウロは、

  1. わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

  2. コリントの信徒への手紙一8章6節

と書いています。

 人間は神も知らずに生まれ、あることをきっかけにまことの神を知るようになる。そして、救いはイエス・キリストによることを知り、その救いに与る。神が遣わされた聖霊によって、信者を治めておられることを知る。その信者が、キリストの体、教会となっている。「神の住まい」(エフェソ2:22)とも言われます。教派、教団といった大きなまとまりも、聖霊による多様性と一致の結果と考えられます。このようにして、神の霊が信者の群れ、教会を、聖書の言葉に基づいて導いていくという形をとります。その聖書を解き明かすのが牧師の務めになります。神の声が直接聞こえるわけでもないのに、基本に従って聖書を読み解き、礼拝で語る。そうした方法が福音の伝達方法です。もちろん、教会堂の外でも語ります。

 4節から6節に「同じ霊」「同じ主」「同じ神」とあります。いわゆる三位一体と呼ばれる神の説明です。聖霊によって「イエスは主です」と告白した者たちは、生ける神をこのように説明できるのです。これが、言葉による説明の限界です。実物は唯一の神です。

 「務め」(5節)とは「仕える」という意味です。仕える姿を主イエスの生き方によって学びます。それを「同じ主」と書くのです。また、創造的に物を作り、それを世に現す働きは、天地創造の神によるもので、それを「同じ神」と書くのです。そのように、神の霊を受けた信者は、実際の社会で、各自の個性を活かして、多様な物を生み出し、社会を発展させてきました。多くの人々の益となったのです。それがもし、一つの教会で活かされれば、と期待します。

 知恵の言葉を語る人がいる。知識の言葉、情報を伝える人がいる。正しい信仰が与えられ、教理を守る働きをする人がいる。病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力という、いろいろな形で力を発揮して、一つの教会を形成します。7節の「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」が、一般の霊の力の理解と違う点でしょう。一般的には、特別な奇跡が行える人、個人の超能力を霊的と考える傾向があります。しかし、神の霊は個人プレーではありません。互いの益を図るようにそれぞれの霊の賜物を用いて、教会に仕えます。

 今日、パウロが最も言いたかったことは、神の霊、聖霊の賜物とは、信者に多様性と一致とを生み出すということです。神の声は聞こえないけれども唯一の神、唯一の主から出た聖霊の導きに従う者たちが教会を建てていくのです。

 イエス様は、聖霊についてこう言われました。

  1. わたしが去って行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。

  2. ヨハネによる福音書16章7〜8節

 イエスが天に上げられ、その後聖霊を送ってくださった故に、私たちは、聖霊によって、この世の霊との違い、主イエスについて、また神について、正しく知ることができるようになったのです。

 今は、弁護者としての聖霊が働かれる時代です。聖書を通してその霊によって人が救われ、救いが実現します。

 今、イエス・キリストが、聖霊によって、生きておられる神を教えてくださっています。私たちは、その方の導きに信頼して歩むのです。

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