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2022年7月3日(日)主日礼拝説教(要約)


   説教  今日、という日      

                吉平敏行牧師


  聖書  ネヘミヤ記 1章1〜11節

      エフェソの信徒への手紙 1章15〜23節

 私たちは学校で歴史を学びますが、その「歴史」上の出来事も、その発端、そもそもの話といった領域の詳細は、その場に立ち会った人たちの証言による他ありません。後に大事件となる歴史も、その始まりは、或る日、気持ちがそう動いて、始まっていったと言えるでしょう。

 ネヘミヤ記は、紀元前586年、南ユダがバビロンに捕囚となってから約140年を経てからの事柄です。バビロンに捕虜となったユダヤ人の中には、ネヘミヤのように、王の信頼が求められる重要な仕事を任された人もいました。その王の献酌官ネヘミヤのところに、兄弟ハナニが仲間を連れてやって来たのです。

 ネヘミヤがエルサレムとそこに残された人々の様子を尋ねると、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」(3節)との答えが返ってきました。町の城壁は140年前のまま、石は崩れ落ち、門は火で焼き払われたまま。周辺諸国の物笑いになっている、というのです。

 人は困難に直面して練られます。何とかなるだろうと思っている内は何も起こりません。どうにもならなくなって、危機感を抱いて立ち上がります。その状態にまで至った原因を突き止め、考え方、姿勢まで改めるというのであれば、回復への可能性も出てきます。それにしても、どん底の状態から引っ張り上げるには、外の力を必要とします。

 今、教会が直面している問題を、聖書に照らして、この時代にふさわしく対処していったらどうなっていくのでしょう。新約聖書でヤコブは言います。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」(1:2)試練は辛いものですが、大変な問題に出会ったからこそ、解決への糸口が見つかるかもしれません。

 しかし、140年も放置されていた町や城壁です。問題は、打ち破られた城壁や焼け落ちたままの城門ではなく、それを「放置して来た」の人々にあったと言えます。

 そこに、白羽の矢が立てられたのがネヘミヤです。王宮の献酌官という立場も今後大きな意味を持って来ます。「これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。」(4節)ネヘミヤは「泣く者とともに泣く」人でした。同胞の苦しみを聞いたからには放っておけない。ネヘミヤは同胞と祖国のために、断食して神に訴える。神よ、なんとかしてください、というネヘミヤの悲痛な訴えを聞き取りたいのです。

 祈りは、神を讃えることから始まりました。「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ」との呼びかけ。「主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。」彼は、自分の神が「契約を守り、慈しみを注いでくださる」方であることを知っています。しかも「慈しみを注いでくださる神」。裁きの中にも、絶えず憐れみを掛けてくださる方。その方に向かって、「耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください」と嘆願します。

 ネヘミヤの祈りは、思い浮かぶ限りの罪の告白となっていきます。祖国荒廃の原因は、自分たちにある。彼の祈りは、自分自身と同胞の神への罪を問う、悔い改めの祈りへと深められます。

 ネヘミヤは、その罪の告白から始めます。祖国が滅ぼされたのは、自分たちの罪のゆえである。自分と自分の父の家もその罪と無関係ではない。「わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました」と告白します。エズラも、こう祈りました。「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。先祖の時代から今日まで、わたしたちは大きな罪科の中にあります。その罪悪のために、わたしたちは王も祭司もこの地の王の支配下に置かれ、剣にかけられ、捕らわれ人となり、略奪され、辱められてきました。今日、御覧のとおりです。」(エズラ9:6〜7)ユダの人々は、バビロンの捕虜となったのは自分たちの罪であると自覚し、悔い改めたのです。

 神は預言者たちを通して度々警告しましたが指導者たちは聞こうとしませんでした。本来、従うべき神の法に背いていた。それが偶像崇拝であり、彼は、それをありのまま神に申し上げたのです。祈りは、かつて神が約束してくださった言葉への訴えとなります。

 9節は、申命記30章の言葉です。「もしもわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。」自分の過ちに気がつき、罪を認め告白する。それが、神に立ち返るということです。あの放蕩息子が、何物かに取り憑かれていたかのように、夢を追いかけ、現実から逃避していた。しかし、食べる物もなく飢えて死にそうになったとき、彼は、我に返りました。(ルカ15:17)

 私たちが、神に帰る方法は悔い改めです。御言葉に立ち返り、その基準に立ち返って、もう一度、神の御心に従って生きようと決心するとき、そこから神の回復が始まります。とことん悔い改めた者たちに生まれるのは、神による回復が始まる、との希望です。悔い改めのないところに希望は生まれません。

 だれも好んで困難に直面するわけではありません。自分では正しい道を進んでいると思いながら、どうしてこんな目に遭うのだろう、というのが人生です。まさに、申命記8章3節で「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と書かれているように、苦しみを通して生ける神を知り、それによって、人は神の言葉によって生きることを学ぶのです。

 10節は執り成しの祈りです。「彼らはあなたの僕、あなたの民です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。 」荒廃したままですが、それでも、あなたがあのエジプトから救い出されたご自分の民、あなたが贖われたあなたの民なのです、と祈ります。ネヘミヤは「おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください」と祈ります。神との交わりが回復された人々の祈りに、神は耳を傾けてくださるのであります。

 さてこの朝、「エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたまま」をどのように聞かれたでしょう。今日、私たちの状況は、このネヘミヤと同じというわけではありません。ただ、教会が力を失ってきていることは事実です。このままにしてはおけません。それゆえ、私たちはネヘミヤの祈りから、教会の復興を願う祈りへと導かれてまいります。パウロはエフェソの信徒たちの教会を思い、こう祈りました。

  • どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

  • エフェソの信徒への手紙 1章17〜19節

 私たちのために、とりなして祈る者がいる幸いを思います。私たちは、聖徒たちのとりなしの祈りに支えられてきたのです。

 ネヘミヤは最後に「どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください」と祈ります。ネヘミヤの切なる願いは、彼が仕えている王の憐れみを受けることでした。彼の心はすでに祖国の復興に向いています。しかし、お仕えする王の許可がなければ、その道は開かれません。

 私たちが動けるのは「今日」という日です。だから「今日」という日の内に、できることから始めます。まず、神の前に、これまでの姿勢を悔い改め、主が動き出してくださるようにと祈りましょう。私たちは、神がその全能の力を働かせてイエスを死者の中から復活させられたということを知っています。とするならば、私たちの神は、いま、苦境に置かれた教会をも復興させてくださるでしょう。

 今日、祈り始めましょう。一番心にかかっている事柄について、具体的に祈りましょう。そして、主のみ手が動き出す日を待ちましょう。

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