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2022年7月10日(日)主日礼拝説教(要約)


  説教  神の御手が守る

                 ​吉平敏行牧師


  聖書  ネヘミヤ記 2章1〜10節

      ローマの信徒への手紙 9章1〜5節

 ネヘミヤがユダの兄弟たちから、エルサレムの荒廃を聞いて、座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天の神に祈ったのが、キスレウの月(1:1)、今の12月頃でした。彼は、「どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください」(1:11)と祈り始めました。その「どうか“今日”」という祈りを、来る日も来る日も続け、今日のテキスト、ニサンの月(2:1)、今の3〜4月を迎えます。彼は祈りながら何を考えていたのでしょうか。

 ネヘミヤが「この人の憐れみを受けることができるようにしてください」と祈った「この人」とは、ペルシアの王アルタクセルクセスです。その時には、王に率直にお願いしようと考えていたのです。しかし、それがいつ、どんな形で訪れるかは分かりません。

 コレヘトは「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)と教えています。時を支配されるのは主なる神です。ネヘミヤは、話を切り出す時を狙っていたでしょう。王が一人の時が良いのか、付き人がいる時が良いのか。王妃といる、寛いだ時が良いのか。自分の体調や気分も関係します。祈りを継続していく中で作戦が立てられていきます。

 ネヘミヤの祈りは、漠然とした祈りのようで神の御心を知る手がかりとなります。憐れみ深い神は、自分がお仕えする王をとおして憐れみを示される。それが、世に生きる信仰者の考え方でもあります。

 ただその日、ネヘミヤは意気消沈していました。これ迄、ネヘミヤは王の前で暗い表情をすることはありませんでした。それにしても4ヶ月は長い。彼は、いつもどおり王に仕えていましたが、そこに疲れが出ていたのでしょう。王ほどの人は、相手の一瞬の表情を見逃しません。「暗い表情をしているが、どうかしたのか。病気ではあるまい。何か心に悩みがあるにちがいない。」(2)暗い顔は、時に、悪いことを考えている印でもあります。献酌官の務めは、王の気持を和らげ、安心させ、気持ちを引き上げることにありました。暗い顔は禁物です。そこで、「わたしは非常に恐縮して」と訳されているの、「ひどく恐れ」とすべきでしょう。ネヘミヤは不意を突かれ、恐れたのです。しかし、そこで狼狽したらさらに危険です。ネヘミヤは、気を取り直し包み隠さず王に話すことにしました。

 「王がとこしえに生きながらえますように」(3)は、王を安心させるための挨拶です。「わたしがどうして暗い表情をせずにおれましょう。先祖の墓のある町が荒廃し、城門は火で焼かれたままなのです。」彼は、「エルサレム」という名を避けて「先祖の墓のある町」と言います。「エルサレム」は、昔も今も緊張を与える町の名です。「先祖の墓のある町」であれば、だれでも共感するでしょう。

 これが4ヶ月近く祈ってきた、「今日」という日でした。夜明け前が一番暗いように、闇からうっすらと光が見えて来る瞬間です。それが、神の業の始まりとなります。神が主導権を握られた時です。初めは、その思いがけない展開に当惑するでしょう。神からのもの、天からのものは、思いがけないものであるために、初めは当惑することがあります。

 張り詰めた空気。その一瞬は、ネヘミヤには長く感じたでしょう。・・・「何を望んでいるのか。」王の第一声は、ネヘミヤの願いを聞くものでした。それは、ネヘミヤを案ずる王の声でもありました。

 ネヘミヤは「天にいます神に祈って」(4)口を開きます。この祈りは、感謝でしょう。そして、一呼吸置いて話し始めます。「もしも僕がお心に適い、王にお差し支えがなければ、わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください。町を再建したいのでございます。」(5)彼は心にためて来た願いを、静かに王に伝えます。

 こうした緊迫した箇所を読む度に、私たちは祈りとは何であり、祈りが応えられるとはどういうことかを考えさせられます。神はおられ、私たちの祈りを聴き、最も良い時に動いてくださる。神の御手が動き出す。しかし、私たちがその時を見落としているかもしれません。王の「何を望んでいるのか」という問いかけこそ、ネヘミヤが祈ってきた祈りが応えられた時でした。

 ネヘミヤは胸に秘めてきた願いを王様に伝えます。助けて欲しい事柄を具体的に挙げていきます。そこにネヘミヤの「祈り」の積み重ねがありました。先々まで思い巡らし、その手順を祈りによって組み立てていくのです。漠然と「神様、一切をよろしくお願いします」では、どんな祈りが聞かれたかすらわかりません。こうしたことも、困難に直面する中で学んでいくのです。

 祈りは、私たちが思いを超えて応えられます。ただ、祈りは魔術ではなく、たちどころの奇蹟を呼び起こすものでもありません。神が祈りを聴かれるとは、人を介して状況が動いて行くことでもあります。

 そこには、王の傍らに王妃がいました。一諸の食事の席であったと思われます。多少のお酒も心地よくさせていたでしょう。

 王と妃との話で思い出すのは、イエス様の裁判に関わるピラトと妻のやり取りです。ピラトが裁判の席に着いた時、妻がピラトのもとに人をやってこう言わせます。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(マタイ27:19)恐らく歴史上、妻に助けられた指導者たちはたくさんいたでしょう。ピラトも巧みにユダヤ人たちの策略をかわしています。 

 ここでも、妃の雰囲気は王の判断に影響を与えたでしょう。そして、このような場の決定は覆されることはないでしょう。王は「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」(6)と尋ね、無理のないものであれば、応えようとしてくれたのです。

 ネヘミヤの念入りな準備には驚かされます。これが、数ヶ月の祈りの積み重ねです。旅のルート、途上で発生し得る困難。彼は、その場、その場を想像し、その時助けになる事柄を思い描いたでしょう。

 通過する国々の交通許可証、今日のパスポート。さらに、城門の梁と城壁再建、さらにこの事業のために、自分の家の資材までお願いする。私たちなら遠慮する場面です。しかし、ネヘミヤには、これは神の事業であるとの自覚があります。その事業を全うするには、指揮をとる自分の身を守らねばならない、と考えます。完成に至るまでの青写真を描き、本当に必要なものを願い出ているのです。

 ネヘミヤは王の応答の一つ一つに神の御手を見ています。8節に「神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた」とあります。驚くことに、王は「将校と騎兵をわたしと共に派遣しくれた」(9)というのです。それは、ネヘミヤが思ってもみない、王による寛大な配慮でした。こうして、王の憐れみを受け、話が一気に進みましたが、それら一切を「神の御手がわたしを守ってくださった」と証言するのです。その後、ネヘミヤはエルサレムの人々に、「神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると」(2:18)と語っていますが、事を始めようとする時、関係するすべての人々にこれが神の業であることを確信させ、人々を動き出させたのです。

 こうして、ネヘミヤが4ヶ月を費やした祈りの結果を見ました。私たちは、自分のなすべきことを継続しながら、神の介入を待つのです。こうして、祈りは、実際に祈ることによって以外に学べないと知ります。

 パウロはコリントの信徒に宛てた手紙に「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(2コリント1:12)と書いています。「神の恵みの下に行動する。」これがキリスト者の行動の原則です。私たちは、無理をするのではなく、神の恵みに押し出されて行動します。

 私たちは、神が憐れみ深い方であることを知っています。その神に罪赦された者として、精一杯、なずべきことを尽くすのです。神の恵みのもとに生きるキリスト者のあり方です。

 理屈ばかりを述べて、議論ばかりが沸き起こる知識偏重の信仰から、生きる信仰、困難な時代を共に生きる信仰へ。世は、様々な形で繋がっています。それら一切を支配される父なる神に祈ります。

 その結果、起こってくる神の業に、パウロがいう「人間の知恵によってではなく、神の恵みの下に行動してきました」という、結果を見るのでしょう。それが、私たちの祈りの体験として積み重ねられていくのです。

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