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2022年7月17日(日)オープン礼拝説教

  説教  聖霊によって守る

                吉平真理教師試補

  聖書  テモテへの手紙二 1章3〜14節

 この手紙は、使徒パウロが愛弟子テモテに宛てて認めた書簡で、パウロによる最後の手紙です。このときパウロは、ローマの地下牢で鎖に繋がれ、与えられた最期の行程を走り切ろうとしていました。「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」(4:6)このような状況で、彼が教え導き、慈しんでやまない愛弟子のために、朝に夕に祈りながら綴られた手紙です。

 パウロは、若いテモテを励まそうとしています。テモテがエフェソの教会で、年上の人々の中で、込み入った問題に取り組み、難儀している。皆が協力してくれるわけでもなく、面と向かって反対する者もいる。まっすぐに福音を語ろうにも、パウロの言うことなら聞くが、テモテの言うことは聞かないという人もいたでしょう。

 「福音宣教」は、時間と忍耐を要する地道な作業です。神の義と憐れみとが、イエス・キリストをとおして与えられている、この「命の約束」に与るように、と教え導く務めです。「命の約束」とは「キリスト・イエスの出現によって明らかにされたもので」(10節)不滅の命を表した救いのことです。その「福音のために苦しみを忍ぶ」(8節)ことが求められ、それは時に「魂の重荷を負う」とも言われます。テモテはその「命の約束」を確認し、純真な信仰を受け継いでいることを思い起こす必要がありました。

 テモテは、ユダヤ人の祖母ロイスと母エウニケを持ち、パウロが第1回目の伝道旅行をした際に、イエス・キリストを信じます。彼は幼い頃から聖書に親しんでおり(3:15)、母方に流れる純粋な信仰を受け継いだ上でキリストを信じます。父親はギリシャ人のため、パウロは宣教を続けるにあたり、ユダヤ人たちの妨害を避けようとテモテに割礼を施します。

 こうしてテモテの信仰は、民族や家族の背景、導いた教師の教えや生き方を通して、その心と生き方の中に定着していきます。パウロは信仰が「宿る」(5節で2回)という言葉を使っていますが、信仰は努力して獲得したというよりも、家族が純真に信仰に生きた足跡、それが歴史となって継承され、先人の生き方になって、定着していくものでしょう。福音は人から人へと伝達されて、そこに、もろく弱い人間の言葉と生き様を介する、という不完全さを含めながらも、神の憐れみによって、それを受けた人が救われるようになっているのです。

 テモテは、パウロと共にエフェソで3年間宣教します。エフェソは、様々な宗教が入り乱れる多難の宣教地でした。その後、彼らはギリシャで3ヶ月宣教し、船でエルサレムに上る途中でミレトに寄港し、そこでパウロはエフェソから教会の長老たちを招いて最期のお別れをします。(使徒20:17~38)テモテはパウロの勧めに従って、長老たちとエフェソに戻り、教会を守ることになります。テモテは、4節に「あなたの涙を忘れることができず」とあるように、泣きながら恩師であるパウロを見送ります。彼の涙には、パウロを見送る悲しさだけでなく、先行きの心細さがあったことでしょう。パウロはそんな彼の涙を覚えているので、「ぜひあなたに会って、喜びで満たされたい」(4節)と書いていますが、この手紙の最後の章にも「ぜひ急いで、わたしのところに来てください」(4:9)とあるように、処刑が迫るパウロもテモテに会いたがっていたのです。

 パウロは「わたしは、自分が信頼している方を知っており」(12節)と書きます。度重なる困難の中で、大変な状況に置かれるたびに、彼の主への信頼は増していきました。わたしは、その方を知っている。さらに、この方は、わたしに委ねられたものを、守り通してくださると、確信している。この最後の場面で、そう言える方、その信頼に足るお方がイエス・キリストです。  

 そう語れる経験の中には、囚人としてエルサレムからローマに移される航海で(使徒言行録27章13節以降)、「エウラキロン」という暴風に見舞われた出来事もあったでしょう。嵐の中で「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」という、御使いの声を聞きます。嵐の中で船は座礁しますが、276人全員が助かったのです。自分が信じてきた神が、あの暴風の中で、パウロにその働きを全うさせるために守ってくださるのだと確信したのです。

 主イエスを信じた者に神がお与えになった賜物。パウロを使徒とした「命の約束」、それがテモテにも与えられている。そうした「命の約束」は、イエス様を信じる私たちにも与えられています。パウロはテモテに、与えられている良きものを、主イエスを信じる者がいただく「聖霊によって守るように」(1:14)と勧めているのです。

 パウロが、「命の約束」「純真な信仰」に次いでテモテに思い起こさせたかったのは「聖霊の賜物」についてです。6節の「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます」という言葉は、エフェソの人々の前で、パウロが按手して、テモテを教会の務めに任じたことを指します。按手は、その職務の権威が委譲されたことを確認する大切な儀式です。聖霊の賜物がその人に付与されることを主にある者たちが確認します。パウロは、その霊は、人をおくびょうにするものではなく、「力と愛と思慮分別」とをもたらすものだと励まします。テモテは数々の問題を避けようとして、消極的になっていないか。慎重さが臆病に変わってはいないか。そういう霊は神が与えたものではない。神が与えてくださったものは、力と愛と自制心を伴う冷静な霊による判断力である。果敢に、しかし冷静に問題に取り組んでいく。それが、神が贈られる聖霊の働きです。

 このとき、テモテが案じていたことが、二つほどありました。一つは、パウロがローマで投獄されているという知らせです。それによって、それまでパウロを慕っていた者たちが、離れていったことが書かれています。フィゲロとヘルモゲネスの名が挙げられています。その一方で、16節のオネシフォロとその家族のように、パウロが鎖につながれていることを恥と思わなかった人々もいたのです。事態の受け止め方によります。

 二つ目にテモテが気にしていたのは、「福音のための苦しみ」(8節)でした。福音は、初めは人々に喜ばれるのですが、本当にその人が救われるかどうかというとき、必ずと言っていいほど反発に転じることがあります。人を縛る罪の力の強さを痛感する時でもあります。またキリスト者の中にも、パウロのいう「信心を装いながら、その実、信心の力を否定する」(3章5節)人もいました。テモテが直面している苦しみは、福音の真理を伝えようとするときに、避けては通れないものでした。神に召されて福音に仕えようとするとき、そうした苦しみを避けようとしてはならない、と勧めているのです。

 そこでパウロは、「わたしから聞いた健全なことばを手本にしなさい(13節)と勧めます。他の人々が口にする様々な評価、批判ではなく、わたしから聞いた堅実で安心できる言葉に倣いなさい、というのです。そうしたことの積み重ねの故に、「今や、義の栄冠を受けるばかりです」と言えるのでしょう。私たちもこのような言葉を子孫に遺したいものです。私の祖母も、母も、宣教に苦闘する中でよく口にしていました。「栄冠が待っている」「栄冠を受けるから」。彼らの口癖が思い起こされます。口癖はその人の信仰を表す言葉でもあります。

 私たちの発したどんな言葉が、家族の記憶の中に、家族の歴史の中に残り、受け継がれるのでしょうか。私たちの、主イエス・キリストに仕えるその姿勢が、子供や孫たちに至るまで「純真な信仰」として刻まれるように。その向こうに「栄冠が待っている」と言えるのは、私にしても、これからの歩みによります。「自分はこれまで、やってきた」と語るのとは、質も格も違います。私たちは、次の世代、またその次の世代にどんな信仰を残すのでしょう。

 「義の栄冠」は、多く労した者だけがいただけるのでしょうか。パウロは、そうは言っていません。正しい審判者である主から「義の栄冠を受けるばかり」と言った後で、こう記しています。

 「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」(4:8)

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