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2022年7月24日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  良い企てに奮い立つ

                  吉平敏行牧師

  聖書  ネヘミヤ記 2章11〜20章

      フィリピの信徒への手紙 1章27〜30節

 バビロンに侵略されてから140年も経つのに、エルサレムは依然として瓦礫の山でした。門は壊れたまま、城壁も崩れたままでした。そんな町の復興をどう推し進めていくのでしょう。

 ネヘミヤが、エルサレムの城壁再建に向かおうと思ったのは、郷土愛や正義感、まして自分の手柄や名声を高めようと思ったからではありません。彼は、3〜4ヶ月にわたり、一人祈り続ける中で、湧いて来る思いが主の御心かどうかを自問自答しました。これに関わることは、神からの召しに応えることになるでしょう。何をもって、これを神からの召命と確信するのでしょうか。

 ある日、献酌官としての職務の席で、あわや「命が奪われる」と恐れる、場面がありました。しかし、次に耳にしたのは、王の憐れみの言葉でした。「何を望んでいるのか?」王は、ネヘミヤの非を咎めることなく、心配をしてくれます。そこで、ネヘミヤは、一つ一つを丁寧に説明していきます。翁は、ネヘミヤの思いを超えて応えてくれたのです。そこで、ネヘミヤはこう言います。「神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた。」(8節)ネヘミヤは、主がこの事業を進めようとしておられることを確信したのです。

 首都のスサからの長旅を経て、ネヘミヤ率いる一隊はエルサレムに到着します。住民たちは、ネヘミヤに率いられた将校、奇兵隊の一行を見て、何事かと思ったでしょう。10節のホロ二人サンバラト、アンモン人のトビヤという名前、あるいは19節のアラブ人ゲシェムといった名前は、その辺のごろつきのように思われるかもしれませんが、隣国の指導者たちです。彼らは、ネヘミヤが帰ってきたことを快く思いませんでした。

 エルサレム到着して3日が過ぎました。事態はまだ何も動き出していません。3日は意味のある数字です。それまでとのつながりが断たれ、新しいことが起こり始める期間でもあります。ネヘミヤたちは、旅の疲れを癒し、心身を整え、新たな事業に取組む備えに当てました。

 ネヘミヤにはいくつかのアイデアがありました。しかし、それが確認、確信できるまでは、動き出さない方が賢明です。「夜、わずか数名の者と共に起きて出かけた。だが、エルサレムで何をすべきかについて、神がわたしの心に示されたことは、誰にも知らせなかった」(12節)とあります。パウロが「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神である」(フィリピ2:13)と言うように、神の御心は、まず召された者たちの心に働きかけられるのです。

 神の事業は、人の心に志として与えられ、やがて一つの希望となっていきます。逆に、神の御心でないものは静かに消えていきます。時には、周囲に反対が起こるかもしれません。周囲の人たちにはそうする必要性が感じられないからです。だから、困難が神の御心でないとは言えません。神の事業は、これは神から出ている、と悟った人たちによって進められます。

 いずれにせよ、ネヘミヤは、自分の目で町の現状を確かめたいと思いました。彼は一頭の驢馬に乗り、数名を連れて、エルサレムの城壁を見て回ります。西側の「谷の門」を出て、崩れた壁を見ながら南に下り、「糞の門」を回ります。門は、もはや門としては役立たなくなっていたでしょう。壁も元の形をとどめておらず、石やレンガも崩れ落ちて、下にはうず高く盛り上がっていたでしょう。進んでいくと、壊れ方はさらにひどく、彼が乗った驢馬すら通れないほどの場所になります。

 ネヘミヤは、その場、その場を見ながら、考えたでしょう。16節に「それまでわたしは、ユダの人々にも、祭司にも、貴族にも、役人にも、工事に携わる他の人々にも、何も知らせてはいなかった」とあります。しかし、まだ、知らせる時ではない、と判断しました。

 私たちが見極めねばならないのは、自分がしようとしている事が、自分の願いなのか、それとも神のご計画なのか、ということです。そうした場合、私たちはどうしたら良いのでしょうか。私たちは、困難の中で、聖書を読むこと、説教を聴き、祈り、自分の思いを巡らし、神の御心かどうかについて問うて参ります。同時に、周囲がどう動いていくかを見なければなりません。困難は、私たちの信仰の実践が試みられる時でもあります。

 ネヘミヤは現状を把握した上で、エルサレムの人々を集めます。祭司、貴族、役人らが集まりました。彼はこう切り出します。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。」外からきた自分であるけれども、あなたたちの苦しみはよくわかる、と言っているのです。

 そこで、ネヘミヤは人々に呼びかけます。「エルサレムの城壁を建て直そうではないか」(17節)です。どうしたら良いのか、考えもしなかった人々に、具体的な指示を出しました。そこに、改めて「エルサレム」という町の名、その町の誇りを取り戻そうとする思いが湧いてくるのです。今日であれば、「教会を立て直そうではないか」。それも良いでしょう。しかし、こうも言えます。「神の宮を建てようではないか」。「聖霊の住まわれる宮にしようではないか」。目に見えない神の事業に携わるということは、自分の信仰を建て直すことに通じます。

 ネヘミヤは「神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉」(18節)を告げました。あわや殺されるか、という状況で、王が憐れみを示してくれた。その時のやり取りです。王が語ってくれた一つ一つを証ししていったのです。私たちを良き業に駆り立てるものは「神の恵み」です。神の恵みのあるところに、その神を知る者たちに希望が湧き、喜びが出てきます。詩編に「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」(詩編46:1〜2a)とあります。神が拠り所となる。人々は「早速、建築に取りかかろう」と応じ、「この良い企てに奮い立った」のです。

 困難は、数々、思い浮かんできます。先の困難を考えたら、大変だという思いが湧くばかりです。しかし、これから取り掛かろうとする事業が、神からの召しだとしたら、私たちはどう受け止めるのでしょう。

 そうしたところに、不穏な空気が起こります。「ホロ二人サンバラトと、アンモン人のトビヤ」です。そこに19節の「アラブ人ゲシェム」が加わり、「わたしたちを嘲笑い、さげすむ」というのです。「お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか」。これは、いつの時代でも上の権威に訴えて行う脅しの常套手段です。

 世は残酷な一面を持っています。自分が優位にいる時には、寛大に振る舞います。しかし、自分よりも弱い者たちが本気に取り組もうとすると、困る人たちが出てきます。現状を肯定する人々が「何も、そこまでしなくても良い」と反対し始めるのです。 

 ネヘミヤは語ります。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する」(20節)。この事業を始められたのは神であるとの確信が、一人一人に新たな自覚を与えます。

 どんな提言にも反対は付きものです。反対が起きないというのは、何もしていない証拠です。何もしなければ衰退の一途をたどることになる。しかし、敢えてことを起こそうとすると問題が起こる。ネヘミヤ記であればエルサレムの復興であり、今日であれば、福音を伝える伝道であり、主の教会を建て直すことです。

 パウロは、こう書いています。


  • こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

  • エフェソの信徒への手紙 4章12〜13節

 教会を建てるとは、一人一人の信仰が成長していくことでもあります。キリストにある交わりが、豊かにされていくこと。そして、教会としての信頼を取り戻すことです。何をもって、これが聖書の約束している教会である、と言えるのか。それが、今日における城壁の再建の課題と言えます。

 「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる」だから、「その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する」という誇りを持ちたいと思います。落ち着いて、日々にコツコツと整える私たちの姿を見て、再び人々が教会に帰ってくることを願うのです。

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