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2022年7月31日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  賜物を主に捧げよ

                 吉平敏行牧師

  聖書  ネヘミヤ記 3章1〜2章

      コリントの信徒への手紙一 12章4〜11節

 黙示録に、新しい天と地ができた時の神の都が描かれますが、そこには「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」(21:27)と書かれています。都の城壁は「碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった、都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた」と絢爛豪華です。聖書は、一貫して神の都をエルサレムと呼び、神の民は、地上であれ、天上であれ、エルサレムに住むことを願ったのです。なぜ、ユダヤ人はそれほど神の都にこだわるのか。そして地上では、神の都エルサレムの再建に取り組む人々がいました。壊れた町を再建し、後世に伝えていく、そこに神の愛しみのみ手を見る。そこに神の国の建設に携わる者たちの時代を超える喜びがあったのです。

 ネヘミヤから神の恵みの話を聞いて、人々は「早速、建築に取りかかろう」(2:18)と動き出しました。「不幸の中にあえいでいる」人々、大変な状況しか見えていなかった人々が、ネヘミヤの掛け声から城壁の補強作業に入っていきました。敵の誹謗、中傷、嫌がらせも入りますが、彼らは神に祈りながら作業を継続していきます。それをまとめて「わたしたちは城壁の再建を始め、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には働く意欲があった。」(38節)この事業を継続させていく力は「働く意欲」でした。

 ネヘミヤの前、エズラの時代には神殿の復興工事でした。今回、祭司たちは城壁の再建に動き出したのです。「大祭司エルヤシブは、仲間の祭司と共に羊の門の建築に取りかかり、それを奉献し、扉を付けた」(1節)とあります。

 リューティーは「いつもは奥まった静かな所にいる祭司たちが、そこから表に出てきて、長い衣のすそをまくりあげ、つるはしを握り、たがねを打ち、物差しを当て、ハンマーを振り上げ、のこぎりを引き、左官のこてを手にとります」と想像力豊かに描写しています。

 その他、色々な技術を持った人がいます。8節の「鋳物師」は、門の扉や金具、かんぬきなどの製作に関わったのでしょう。「香料調合師」は何をしたのでしょう。9節からは、各地区の区長の名が出てきます。「レビ人」、あるいは「オフェルの神殿の使用人」、「東の門の守衛」といった人々もいます。さらに、エリコの住民、テコアの人々、ギブオンとミツパの男子たち、などエルサレム以外の町からも加わっています。

 4節の「ハコツの孫でウリヤの子であるメレモトが補強に当たり、またその傍らではメシェザブエルの孫でベレクヤの子であるメシュラムが補強に当たり、その傍らではバアナの子ツァドクが補強に当たり」という箇所から、誰々の孫と孫、誰々の子が一緒になって補強に当たる現場を思い描きます。12節では、区長の娘まで加わっていたことを知ります。リューティは、「そこでは、まさしく、立ち居振る舞いが横一列のものであったのです。・・・対立するようにでなく、上下の順に従うようにでなく、同列に並ぶ者のように、語ります」と解説しています。みなが一つになって、自分の町の再建に取りかかる時、もう目の前の「手につけられないほどの困難の山」は、少しずつ崩されていったのです。汗を流して取り組む時、人々の思いは一つとなっていくのでしょう。

 さらに、人々の背景や事情も見えてきます。4節の「ハコツの孫でウリヤの子であるメレモト」は、エズラ記8章33節にも出ています。彼は14〜5年前の神殿の再建時には、「ウリヤの子、祭司メレモト」と書かれていますから、「祭司」だったようです。その彼が、今は、冒頭の祭司たちとは別の場所で作業をしています。3章20節では、「大祭司エルヤシブの家の入り口から家の端まで」の第二の部分を補強したと書かれています。かつての「祭司」メレモテが、次の大祭司の家の近くを作業する。こうした主だった人々がどのように行動するかが、次の世代に影響を与えていくのでしょう。

 しかし、気になる記事もあります。4節の「メシェザブエルの孫でベレクヤの子であるメシュラム」は6章15節以降にも出ています。6章18節には「トビヤの子ヨハナンはベレクヤの子メシュラムの娘をめとっていた」というのです。ネヘミヤ指揮する再建事業に反対するトビヤの息子が、城壁の復旧にあたる人の娘と結婚していたということです。町全体としては復興事業が進んでいますが、内部には色々な人間関係があって、それが今後現れ出てくることになります。

 5節にはテコアの人々が出ていますが、「その貴族たちは彼らの指導者たちの作業に服そうとしなかった」とあります。町の中でも有力者が、この城壁再建には協力しようとしなかった、というのです。リューティは「彼らは、このような援助は、強制労働だと感じて、首を縦に振らなかったのです」と解説しています。今日のニュースを見るような気がします。

 さらに、「自分の家の前」(10節)「自分の区域で」(17節)「自分の家の前」(23節)「自分の収納庫の前を修理した」(30節)とあります。隣の家の前ぐらいまで掃除をしてもいいのに、と思うこともあります。20節のように「熱心に補強した」と敢えて「熱心」と書かれた人もいます。こうしたところに、人々の表情が見えてきます。パウロはこう勧めています。


  • 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。

  • エフェソの信徒への手紙6章6〜7節

 彼らを再建事業に動かしたのは、神の恵みの御手でした。その神の恵みは、今日の私たちにも注がれています。主イエスは豪華な神殿を指差し、「この神殿を壊してみよ。3日で建て直して見せる」(ヨハネによる福音書2章19節)と言われました。ユダヤ人たちは、この言葉に腹を立て、この言葉がイエスの裁判の席でも証言されました。弟子たちですら、イエス様が仰ったことの意味が分かりませんでした。しかし、主イエスが復活された後、この場面で、「神殿」とはイエスの(復活された)からだのことを指していたと知ります。ここにイエス・キリスト体である教会があります。ネヘミヤ時代のエルサレムではない。あるいは、主イエスが「この神殿を壊してみよ」と仰った神殿でもない。今日のエルサレムでもない。イエス・キリストの復活によって、イエスを主と信じる人々によって組み合わされ、建てられる、聖霊の宮、目に見えない神殿があるのです。

 私たちは、今日、様々なつながりが崩れ、関係が崩れてしまっている社会を生きています。親と子、夫と妻、会社の上司と部下、社員同士、信徒同士、教会においてはみ言葉を語る者と聞く者との関係。かつての関係を取り戻そうとする人はいません。では、私たちは神の民としての一体性はどのように回復されるのでしょう。今こそ、「信仰によって」という一語が問われてきます。「The 信仰」とも呼べるような信仰とは何でしょう。私たちは、その基準を聖書に置くのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙12章で、神から与えられた恵みを互いのために用いるようにと勧めます。それが「全体の益となるため」という言葉です。私たちがイエス・キリストを信じて与えられた聖霊の賜物を、全体の益となるために用いなさい、と勧めるのです。ローマの信徒への手紙では、「勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」(12章8節) と書いています。「惜しまず」、「熱心に」、「快く」という言葉に、ネヘミヤ記の「熱心に」という言葉を思い起こします。

 ネヘミヤ記では、民の名が事細かに、関係までも記されていましたが、今イエス・キリストによって神の国に入れていただいた私たちは、どうでしょうか。今、私たちは、天のエルサレムの再建に仕えているのです。私たちの名もそこに刻まれるでありましょう。そして、神の国が完成される日、私たちはそれを見るのであります。私たちは集められ、主が完成してくださった神の都の光の中を歩くのです。都の門は開いています。宝石で飾られた城壁を見ながら、目を大きく見開き、息をとめてのぞき込むでしょう。その美しさに感動するでしょう。私たちは、神の都の入り口で、自分の名が記されているのを見るのであります。

 信仰は教理を理解することではありません。それぞれが直面する困難な時代を、神の民として共にどう生きるかの歴史です。今こそ、忍耐をもって、互いに励まし合いながら、主にお仕えしていきたいと思うのです。

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