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2022年8月7日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  世界に一つの名

                吉平敏行牧師

  聖書  ネヘミヤ記 4章1〜17節

      使徒言行録 4章1〜12節

 「信仰の戦い」という言い方を好まない方もおられるでしょう。自分が信じる神を絶対として、反対する教えを冒涜とみなし、自分たちの神の名によって滅ぼさねばならないとの論理で戦争を正当化するのは許されません。今日では「自由のために」を旗印に掲げます。しかし、本当に戦うべき「敵」は誰であり、どこにいるのか。正義を振りかざす側が、悪魔の策略に乗せられていることはないのか。聖書の言葉を扱う時ですら、悪魔は働くことを覚えねばなりません。

 城壁再建事業は、「全長にわたって高さの半分まで築いた」ところで、新たな問題にぶつかります。道半ばにして遭遇する普遍的な問題でもあります。

 この段階では、まだ表に出ていません。相手の心理を読みながら進める心理戦です。こういう段階を「霊的な戦い」と言うことがあります。

 一節のサンバラト、トビヤ、アラブ人、アンモン人は既に出てきました。そこに「アシュドドの市民」が加わります。サンバラトはユダの北側にあるサマリヤの統治者、トビヤは元々アンモン人で、アンモンはユダの東側の国。アラブはユダの南側、アシュドドはペリシテの首都であり、ペリシテはユダの西側に位置します。こうして、ユダが四方に囲まれた形になっています。

 周辺国が連合して小国ユダの復興を阻もうとしているのです。周辺国からの噂が流れます。「気づかれず、見つからないように侵入し、彼らを打ち殺して、工事をやめさせよう。」それは、効果がありました。ユダの市民はこう言います。

  もっこを担ぐ力は弱り

  土くれの山はまだ大きい。

  城壁の再建など

  わたしたちにはできません。

 折角、城壁が半分の高さまで回復してきたのに、民衆に働く意欲がなくなっていったのです。原文の4節はコンパクトです。「馬力は衰え、がらくたばかり、我らに壁など建てられない。」民の「働く意欲」は失せ、彼らは、物事をどう組み立てていったら良いのかわからなくなっています。

 高校時代に読んだ三島由紀夫の本に「百里の半ばを九十九里とする超数学的思考」という表現がありました。数学的には、百里の半ばは五十里です。しかし、物事は、単純な数学的計算にはよりません。兼好法師の徒然草にも「高名の木登り」という話があり、木登り名人が、人を高い木に登らせて、枝を切らせたのですが、木の上の危なそうな場所では何も言わなかったのに、降りる段になって、家の軒の高さぐらいになった時に、「危ないぞ、失敗するな、注意して降りろ」と注意を促したという有名な話があります。

 城壁の高さの半分。もう半分まできたと見るか、まだ半分しか来ていないと見るのか。もう半分もある、と見るのか。物の見方によって、私たちの気持ちまで変わってくるのです。

 6節は、少々説明が必要です。

 敵国に接する地域に住む住民が、ネヘミヤのもとにやって来て、自分の家や村から出している戦闘員を家に戻して欲しいと言うのです。それは、戦闘員に自分の村や家を守らせて欲しいというのではなく、エルサレムから戦闘員を撤退させれば、つまり、城壁再建事業を止めさえすれば、敵は攻めて来ない。その方が平和になる、という話です。

 敵にとっては、エルサレムの城壁が崩れたまま、門が開いたままの状態の方が都合が良いのです。ユダの住民に恐怖を与え、戦闘員たちが故郷に帰れば、再建事業は終わる。まさに「将を射んと欲せばまず馬を射よ」です。ネヘミヤを引き降ろすには、戦う気力のない住民の意気阻喪を図れば良い。

 悪魔は、何としてでも宣教しようとする牧師や長老を崩せないと知れば、教会員に動揺を与え、不安や不信を引き起こさせ、何もそこまでしなくても、という意識に向かわせようとします。今どき宣教しようなどとは考えないことですよ、というような雰囲気になれば敵の思う壺です。

 パウロの福音宣教で、教会を混乱させようとしたのも、「潜り込んできた偽の兄弟たち」(ガラテヤの信徒への手紙 2章4節)でした。すでにエルサレムの教会に忍び込んでいたのです。イエス・キリストを信じるだけで義とされるというパウロの福音に対して、異議を唱え、それだけでは不十分だ、割礼を受けて律法を守った方が良い、と再び律法主義に向かわせようと、キリスト者の顔をして「こっそり入り込んできた」敵たちがいたのです。パウロは、ひと時も譲歩しなかったと言っています。

 私たちは、今、何を目指して宣教しているのか、その事業を始めたのはだれで、そこに自分がどう関わっていくのか。教会が成長し、豊かになっていくのは、自分たちのためではないのか。今、自分が言おうとしていること、主張している言葉は、共に主に仕えることになるのか、神の事業に反対する立場に立つことになるのか。

 それに対して、ネヘミヤは戦闘員を敢えて敵から見える所に立たせる戦略に出ます。城壁の崩れた場所、むき出しになった所に、剣と槍と弓を持たせた戦闘員を配置しました。来れるものなら来てみよという姿勢を示したのです。その上で、ネヘミヤはこう言います。

敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。

 「信仰の戦い」という勇ましい言葉で、人々を鼓舞できる時代ではなくなりました。こんな時代にこそ、互いに仕え合いなさいとの主イエスの言葉に聞かねばなりません。主イエスの語られる言葉は霊であり、弱い人々を慰め励ます言葉であり、労している人々への感謝やねぎらいの言葉でもあります。教会は霊的な共同体として、聖書の言葉に基づいて、キリスト者は神の御心を読み取って、仕えていくことになります。「信仰の戦い」とは、日々一貫したキリスト者の歩みを続けていくことあります。

 ネヘミヤの作戦が功を奏しました。敵は、ユダの人々の姿勢を見て、神がその計略を破られたことを知ったのです。人々は元の作業に戻っていきます。しかし、敵の攻撃に備える陣容は崩しません。ネヘミヤの部下は、半分が再建事業に当たり、他の半分が武器、武具を付けて立ち、戦いに長けた将たちが後ろに控える。実際の作業に当たる者たちも、片手に道具を片手に投げやりを持つ、あるいは各自が腰に剣を差して作業に当たる。また万一の時には、ネヘミヤの傍らにいる者が角笛を鳴らし、敵が攻めて来た時には集まるようにと指示を出しました。その上で、「わたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる」と述べるのです。

 使徒の時代も、エルサレムで信者が急増していく中、警戒感を抱く大祭司、議員、長老、律法学者といった主だった人々によってペトロとヨハネは牢屋に入れられ、翌日、議会で尋問されます。大祭司の「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」との問いに、ペトロは、神が死者の中から復活されたイエス・キリストの名による、と堂々と述べ、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」ときっぱり言い切ります。

 今日、私たちがキリストの福音で闘うということは、片手に聖書のみことばを握り、もう片手で実際の生活を営むことと言えるでしょう。生きる糧を得ながら、キリスト者であるとの自覚を持って生活します。自分の一つ一つの判断は、聖書の御言葉に基づくものであるとの確信です。私たちがよって立つところは、世界に一つの名である、イエス・キリストを信じている、ということ、だからです。

 悪魔は、私たちの信仰の確信を揺るがそうと必死です。どのような事態が訪れても、一貫した、変わらない姿勢が、周囲の人々には、不思議に見えるかもしれません。毎週教会に集まり、賛美し、聖書の言葉を聞くことの「普通」が、周囲には奇異に思えるかもしれません。パウロはフィリピの信徒への手紙で「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。」(1章27〜28節)と語っています。

 私たちがこれまで教えられてきたとおりに、神の御心に相応しい生き方を求めながら、主の教会という一つの体として進んでいくことで、バラバラになっていく世の中は、その違いに気づくことでしょう。何か特別のことをするより、一貫した姿勢でいること。そして良い交わりを保つこと。弱っていく教会を強化する一番の方策でしょう。

 今こそ、信仰と生活のバランスを備え、福音にふさわしい生き方とは何かを考えたいと思います。自分の経験や知識だけでことを行おうとしても、うまくは働かない時代にきています。間違った教えが広がりつつあるからです。

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