top of page

2022年8月28日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  主の御旨を尋ねて

                 吉平真理教師試補

  聖書  列王記上 22章1〜28節

      テモテへの手紙二 3章14〜17節

 パウロが弟子のテモテに宛てたテモテへの手紙二は、パウロの最後の書簡です。パウロは手紙の初めに、祖母と母からゆずり受けたテモテの純粋な信仰を認めて喜び、これまで学んで確信したところに留まるように勧め、テモテが幼い頃から親しみ、教えられた聖書の言葉は「神の息吹」なのだから、と語りかけます。改めてこの「神の息吹」は、私たちのうちで、どのような御わざを成すのだろうかという思いになります。

 さらにパウロは、御言葉は、救いに導く知恵を与え、信じる者に働いて人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をなし、有益です、とテモテを励まします。訓練とは、御言葉によって、本当に良いものを見分けることができるようになるということです。パウロはテモテへ、「後の時代には、惑わす霊と悪霊の教えとに心が奪われ、信仰から脱落するものが出てくる」と書き送っています(テモテ一4:1)。神の御言葉にはいのちがあり、私たちを成長させ、この世を支配する様々な霊の欺きから護ってくれます。そのために、御言葉に聞き、学び、信頼して留まり続けること、つまり継続することが重要です。御言葉に生きる良い模範を見つけて見習うことも役立ちます。

 その一例として、列王記から戦いに臨む二人の王の在り方を比べてみたいと思います。

 この22章では、表向きは平和を装っていたアラム国と北イスラエル国との間に、戦闘が始まります。イスラエルの王アハブが、アラム王ベン・ハダドに戦いを仕掛けたのです。アハブは、隣国ユダの王であったヨシャファトを誘い、アラムを相手に、共に戦いに出向いて欲しいと願います。

 ヨシャファトは出陣を前にしてアハブに「まず、主の言葉を求めてください」(5節)と勧めます。彼にはきわめて当然のことでした。アハブは、神に伺いを立てるべく400人もの預言者を集めます(6節)。アハブが招集した預言者たちは、自分で任命した、彼の言いなりになる者たちだったのでしょう。彼らはアハブの計画に異を唱えることなく、全員が「神はアハブ王の戦いを祝しておられます」と勝利を告げます。

 しかし、ヨシャファトは心の不安を拭えません。「他に、主の御心を求めることのできる主の預言者はいないのですか」と食い下がります。400人の預言者が全員、戦いに賛同しても、その言葉を信頼できなかったのです。ヨシャファトは、彼らがこれまで自分が見てきた主の預言者たちのようでないと気づいたのでしょう。

 主の言葉は、良いことばかりを告げません。良からぬことでも、命がけで主の言葉を取り継ぎます。ヨシャファトは、父であった先王アサが、主の預言者の言葉を真摯に受け止め、従う姿を何度も見てきました。ユダ王国の歴史において、主の言葉に従い国を統治できた善王と呼ばれる僅かな王たちの中に、彼の父アサもヨシャファトも数えられているのです。

 さて、アハブはヨシャファトに「もう一人、主のみ旨を尋ねることのできる預言者がいる」と答えますが、気が進まず「自分はこの預言者を憎んでいる」とまで言います。ヨシャファトにたしなめられ、アハブは、渋々預言者ミカヤを呼びます。彼はアハブの意に反することばかりを語るからです。アハブは気まぐれで悪名高い支配者でした。「アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。」(列王記上21:25)と書かれています。

 ミカヤは自分を呼びに来た者たちに、「主は生きておられる。主がわたしに言われることをわたしは告げる」と言って忠実に神の言葉を語ります。「イスラエル人は羊のように、山々に散ってしまっている。羊飼いが正しく世話をし、集めないからだ。彼らに主人はいない。無事に家に帰らせなさい。」つまり、「戦争には赴くな」ということです。さらにミカヤは、アハブの預言者たちが皆同じ事を言ってアハブに賛同するのは、唆す霊が働いて彼らに偽りを言わせているからだ、と言うのです。

 人は、自分の耳に良いことを語ってくれる人の言葉を聞きたがります。それは人間が持つ弱さでもあります。聖書は、耳の痛いことを伝えますが、そこに愛しみ深い神の御思いが込められています。私たちにはその深さが分からないことが多いのです。主のみ言葉は、憐れみと恵みに富み、赦しがあり、真実で朽ち無い望みとなって、問題の解決へと私たちを導きます。主のみ言葉が命の源となるのです。

 しかし、アハブは、頑なに神の言葉を退けます。

 アハブは、ミカヤを投獄します。そして、400人の預言者たちの勝利宣言に後押しされて出陣するのですが、主の承認を受けていなかったゆえに、彼には拭えない怖れが残ります。死を予告されて、不安にならない人はいないでしょう。そこでアハブは、変装を思いつきます。「変装」とは、「(自分を)探させるようにする」という意味で、一眼見ただけでは本人だとわからない衣服や兜を用いたのです。自分への裁きや死への恐れから、主の言葉どおりにならないように工夫しました。しかし、主の預言者ミカヤの言葉は、誰も予想もしない形で起こります。

 一人の兵士が何を狙うわけでもなく、何げなく弓矢を放ったのです。なんとその矢はアハブ王の胸当てと草摺り(くさずり)の間を射抜いたのです(34節)。わずかな隙を突いたのです。しかし、その傷は深く、アハブ王の致命傷となりました。アハブは、何気なく、何かを狙ったわけでもなく、考えなしに放たれた兵士の矢でいのちを落とします。これは、悪を企み、人を犯罪人に仕立てて殺害し、彼のぶどう園を奪い取ったアハブに、神が報復された死と言えるのでしょう。

彼が、神の言葉はそのとおりになる、と知ったのは死にゆく自分を意識した時だったでしょう。

 ミカヤはこう語っていました。「もし、あなたが無事に帰ってこられるならば、主はわたしをとおしては語られなかったのです」(28節)。

 今日のテキストが、私たちに教えていることは何でしょうか。

 「主は生きておられる」ので、主の言葉を取り次いだ預言者の言葉のとおりになりました。私たちは、世の中の風潮に従って物事が成っているように考えるのを注意しなくてはなりません。パウロがテモテに「ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心が奪われる」と警告した時代は、すでに来ています。「主は生きておられる」と信じる者たちは、この世と人の心を支配している諸霊の存在を認めねばなりません。誘惑に陥るのは自分の弱さのせいばかりではなく、その背後に悪の諸霊が仕掛ける、欺き、惑わし、間違った入れ知恵などがあることを知っておかなければなりません。それゆえ、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。私たちは、神の息吹である聖書のみ言葉から学んで「確かに信じた」ところに、しっかり留まっているべきです。 

 この説教を作るうちに、私はすっかり忘れていた出来事を思い出しました。中学2年生の時のことです。「こっくりさん」と言われる占いが学校で大流行しました。中には、授業が終わるや否や女子トイレの個室を占拠し、そこで何十分も占いに耽るグループがいて、トイレの掃除当番泣かせでした。しかし、占い中の彼らに、誰も、そこから出るように注意しません。占いを中断させる者は祟られる、というのが占いのルールだったからです。私の班が掃除当番になり、初めは周囲が止めるので我慢をしたものの、翌日、私はドアを叩いて「掃除をします。すぐに出て!」と声を掛け、猛烈に怒りながら出てきた彼らに「先生には言わないから、掃除の邪魔にならないところを選んでして」と伝えました。    

 ところが放課後、帰り支度をしている私のところに来てこんなことを言うのです。「今夜、こっくりさんがお前を迎えにいく。真理は死ぬ。」 占いの続きで、そう出たのだそうです。人の死を平気で言うのには驚き呆れたのですが、私はこう答えました。「人は、いつか、みんな死ぬよ。でも、今日じゃない。」咄嗟に出た精一杯の反論でした。死を予告されて、気分が良いはずがありません。その晩は、珍しく、牧師家庭に生まれたことを感謝し、普段よりも真剣に聖書を読み、讃美し、祈って休みました。いたずらにこの世の霊を恐れないためには、彼らよりも偉大で本当に畏れるべき方を知り、この方のお言葉に信頼することだと思ったのです。

 パウロがテモテに宛てた手紙を、もう一度、訳を変えてお読みします。

聖書はすべて神の息吹によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益です。 神に仕える人が、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるためです。

テモテへの手紙二 3章16〜17節

bottom of page