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2022年9月4日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  恐れの罠

               吉平敏行牧師

  聖書  ネヘミヤ記 6章1〜14節

      ガラテヤの信徒への手紙 2章11〜14節

 今日注目したいのは、「恐れ」です。

 城壁再建も大詰めを迎える中で、敵の攻撃は指揮官ネヘミヤに向かいます。ネヘミヤに恐怖心を与えて、その事業を断念させようとする計画です。恐怖心の働き方には違いがありますが、進むべき道筋を曲げ、時には断念させ、結果として目標を達成させないということはよくある話です。

 箴言は、こう言います。「人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。」(29章25節)。「恐怖の罠」に引っかからないために、「主を信頼すること」と聖書は教えています。

 ネヘミヤは、これまでいくつかの課題を乗り越えてきました。城壁の高さの半分まで事業が進んだ頃から、周辺諸国の妨害が起こってきます。その敵に対抗するために、武器を取りながら工事を進めていきます。次に、敵に接するユダの周縁の住民から不満が出てきます。城壁再建もさることながらどう生きていったら良いのかという生活苦が起こります。ネヘミヤは、貴族や役人らに貧しい人々の借金を帳消しにさせて、国の活力を取り戻して、事業を続けます。そして、「あとは城門に扉を付けるだけ」(ネヘミヤ記6章1節)というところにまで到達したのです。敵は作戦を変え、指揮官ネヘミヤに的を絞って妨害しようとします。

 敵のサンバラトとゲシェムはネヘミヤに使者を送り、「オノの谷にあるケフィリムで会おう」と提言します。オノは、エルサレムから北西の地中海寄り、大国ペルシャの直轄地になっていて、和平交渉に応じないかと持ちかけたのです。ネヘミヤにしてみれば、再建事業はペルシャ王の許可と支援を得て始まったもので反対される筋合いはありません。平和を脅かすのは彼らであり、交渉の余地など全くない。話し合いに乗ること自体が間違っています。しかし、ことを荒立てないことも知恵で、ネヘミヤは「自分は今大事業に携わっているので、お会いできない」と穏便に断ります。

 敵は、ネヘミヤを殺せば、あるいは人々の信頼を失わせれば、工事は中断すると考え、ネヘミヤをエルサレムの外に連れ出そうとしたのです。しかし、ネヘミヤは応じません。次の手が「開封された手紙」(ネヘミヤ記6章5節)です。

 「開封された手紙」は、みんなに知らせるぞ、という脅しです。お前の悪い噂が立っている。ペルシャの王に悪い噂が届かないように、俺たちが配慮してやるから、相談しようではないか、という話です。

 背後で動いているのがトビヤです。トビヤは、ユダの国の貴族たちと通じており、親戚関係まで結んでいました。貴族たちはネヘミヤの前ではトビヤを褒め、そこで得た情報をトビヤに流していたのです。これが、今から2500年前の記事であることに驚かされます。いつの時代も、政治はそう動くようです。

 ネヘミヤは8節ではっきり言います。「あなたの言うことは事実に反する。あなたの勝手な作り事だ。」そんな脅しには乗らないと伝えます。ビジネスの世界ではこうしたしのぎが削られているのでしょう。

 しかし、私たちキリスト者にとっても、自分が大切にしている信仰について考えてみる必要があります。特に、信仰の具体的表明として、日曜日の礼拝を守るということがあります。自分にとって、何が一番大切かを問い、安息日(礼拝)が基準になっていることは、私たちの身の安全のためです。神の声は聞こえません。各自の、その場における判断に委ねられています。しかし、そうした判断の積み重ねが、必ず問われてくるでしょう。そういう場面で出てくるのが「恐怖心」です。人を恐れる「恐怖心」なのか、主を畏れる「畏怖心」なのか。箴言の「人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる」を思い起こしたいものです。ネヘミヤは「神よ、今こそわたしの手を強くしてください」(ネヘミヤ記6章9節)と祈るのです。

 10節からは、命に関わる脅しです。命を奪わずとも、大衆の信用を失わせれば、ネヘミヤの指導力は失墜します。この場面では、ネヘミヤに安全と引き換えに罪を犯させ、政治生命を奪おうという作戦です。シャマヤは、祭司以外は入れない神殿の聖所に身を隠してはどうか、とネヘミヤに持ちかけます。ネヘミヤは「それはわたしが恐怖心から彼らの言いなりになって罪を犯せば、彼らはそれを利用してわたしの悪口を言い、わたしを辱めることができるからである」(13節)と言います。そうした中でも、ネヘミヤは14節でも「わが神よ、トビヤとサンバラトのこの仕業と、わたしを脅迫した女預言者ノアドヤや他の預言者たちを覚えていてください」と、祈るのです。

 ネヘミヤが直面していた問題は、人々の上に立つ人物として、その使命が果たされないようにと襲ってくる誘惑でした。一般の人はあまり遭遇しない、人々を指導する立場にある故に起こってくる問題とも言えます。今、わたしたちが取り組んでいるのは、教会を建て直す、色々な面で強固にしていくという事業です。そのために、労する牧師・長老・執事のためにもお祈りいただきたいと思います。

 もう一つの恐怖心は、新約聖書に見られる罪を犯すことになるのではないか、ということからくる恐怖心です。(ガラテヤ書2章)

 アンティオキアの教会は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者からなる教会です。イエス・キリストを信じたユダヤ人と異邦人が、一緒に集まって神を礼拝するという、当時では特殊な集団になっていました。周囲の人々は、その集団をキリスト者(キリストに属する者)と呼ぶようになります。

 そこにエルサレムから、いわば正統派ユダヤ人キリスト者がやって来る場面です。それまで一緒に食事までしていた交わりに緊張が生まれ、人と人とが離れるようになっていったのです。律法による規律、掟についての法意識が呼び覚まされた形です。

 その異邦人と一緒に食事をすることが罪を犯すことになるのではないかという「恐れ」は非常に強く、ペテロだけではなく、一般信徒はもちろん、これまでパウロと一緒にやってきたバルナバまでも、その雰囲気に飲まれていきます。それをパウロは、「割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし」(ガラテヤ書2章12節)と指摘したのです。使徒ペトロまでが、そうした行動を取り始めたことは、罪を犯すのではないかという恐怖心が、いかに強く働くかを示しています。パウロは、「ユダヤ人であるあなたが異邦人のようにふるまい、ユダヤ人として生きていないのなら、どうして異邦人をユダヤ人のように生きさせようとするのですか」と言います。そうした指導的な立場にいる者が心を偽って行動する時、周囲にどれほど影響を与えるかを考えねばなりません。

 私たちが教えられてきた信仰による義は、聖書に基づいて、神からいただく義です。人は誰でもイエス・キリストを信じることによって義とされると教えています。救いの根拠が聖書のみ言葉によって抑えられていないと、私たちの信仰は感情に左右され、時に一貫性を失ってしまいます。

 中国人の学者王 敏氏は、日本人は、神を感性で感じる傾向が強いことを指摘し「自然と一体になる感性から生まれる共鳴を神聖とする心だ。神聖な共鳴は教義という言葉で語れるものではない。信じるかどうかではなく、感じるかどうかである」(「日中2000年の不理解——異なる文化「基層」を探る」朝日新書)と書いています。救いの根拠を感情に置くのではなく、聖書の約束に基づくものにしていく、聖書の深い理解が必要になってきます。

 ネヘミヤの誘惑は、命の危険をちらつかされ、そこでネヘミヤが自分の命を惜しんで、身を守ろうとしたら、結局指揮官としての信用を失い、指導者生命が絶たれることを意味しています。

 主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16章25節)と言われました。私たちが「信仰によって生きる」という時、その姿勢を崩させる最大の敵は恐怖心です。それが、今も支配している不従順の霊によって私たちに働きかけます。その霊は、私たちの周囲の人々の言葉を通して働きかけてきます。「何も、そこまでしなくてもいいではないですか」「神様がしてくださるのだから、お任せしていきましょう」。私たちは、そうした信仰を装う言葉に、注意を払う必要があります。

 ネヘミヤの神殿再建事業は最後の、もう少しというところで敵は指揮官ネヘミヤの恐怖心に働きかけました。ネヘミヤが屈しなかったのは、その使命を与えてくださった方を知っていたからです。そして祈りです。

 だから、私たちも主に祈ります。「我らを試みに会わせず、悪より救いだしたまえ」と。

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