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2022年9月18日(日)オープン礼拝説教(要約)

  説教  主の聖なる日

                 吉平敏行牧師

  聖書  ネヘミヤ記7章72b節〜8章12節

 連続して学んできたネヘミヤ記は、今日で終わりとなります。エルサレムの城壁の再建という事業を通して、私たちが学ぶことは何だったのでしょう。

 城壁が完成した後、人々は律法を知りたいと願い出て、祭司やレビ人たちに律法を解説してもらいます。律法は、今日の「法」というより、唯一の神を信じる信仰共同体が、ともに生きるための「教え」と言ってよいでしょう。律法の掟に含まれる神の愛しみ、恵みを味わう必要があります。一大事業を成し遂げた民が、律法を学び直すことによって、希望と力を得て、民族の祭りを再興させ、罪の告白、さらに律法に則った倫理面の改善へと向かいます。

 着工から52日経って城壁は完成します。6章15〜16節にこう記されています。

城壁は52日かかって、エルルの月の25日に完成した。わたしたちのすべての敵がそれを聞くに及んで、わたしたちの周囲にいる諸国の民も皆、恐れを抱き、自らの目に大いに面目を失った。わたしたちの神の助けによってこの工事がなされたのだということを悟ったからである。

 7章に、帰還した部族の名前と民の人数が記され、民の総数は42,360人と記されています。ラクダやロバの数まで記録されています。その彼らが、自分の町に戻っていましたが、月が変わり、エルサレムの東側、一番壊れ方のひどかった水の門当たりに集まって来たのです。レビ記に

第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。(23:24〜25)

と書かれている、その「第七の月の一日」に、人々が一つ思いになって水の門の広場に集まって来たのです。

 彼らは、祭司であり書記官のエズラに律法を読んでくれるよう願いました。エズラは「主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した」(エズラ7:10)律法の学者であり、エズラにとっても民にとっても願いが適う時が来たのです。

 人々の前に置かれた木の壇にエズラが立ち、その両側に祭司やレビ人が立ち、エズラが律法の書を開くと、民は立ち上がり、エズラが神を讃えると、民は両手を挙げてアーメンを唱和し、ひざまずいて、顔を地に伏せて主を礼拝します。ここには、今日の教会では失われてしまった民の礼拝の姿があります。神を讃美し、喜ぶ姿を、私たちも取り戻さねばなるので。

 繰り返し「理解した」という言葉が出てきます。「聞いて理解できる」(2節)、「その朗読を理解した」(8節)、「教えられたことを理解した」(12節)。彼らは5時間に及ぶ律法の朗読に耳を傾けたというのです。

 何が、これほどの熱気を生み出したのでしょうか。それは、律法を聞きたい、神の言葉を聞きたいという一心です。神殿が崩れたとしても、律法が解き明かされ、民がそれを咀嚼していれば生きていけます。逆に、神の言葉への渇きのない民は散っていきます。

 ついに総督ネヘミヤと祭司エズラ、レビ人たちが民全員に向かって「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と勧めなければならないほど、民は感動のあまり涙を流していました。

 私たちは、これまで、宗教に、信仰に何を求めていたのでしょうか。礼拝を守り、聖書を読んで、主の御心を尋ねながら、何を得てきたのでしょう。どうして、ここまで教会が衰退してしまったのか。私たちは、改めて教会の基盤、決して崩れることのない信仰の土台を必要としています。

 彼らは律法を聞き、その内容を理解していくにつれ、忘れていたことを思い出したのです。神は憐み深い方だということです。遭遇する幾多の困難も通り抜け、そこに神が共におられたがゆえに、この事業を完成させてくださったと知り、感動を押さえることができなかったのです。「我らの神は真実である」「神は、ご自分の民を決してお見捨てにはならない」もう一度、律法を学び、今度こそ、神の言葉に基づいた町を建てようとの思いになったのです。

 「教えられたことを理解した」とは、律法の言葉が聞こえ始め、心に光が差し込んでくる。神がおられること、いつくしみ深い方であること、いかなる状況からでも救い出してくださる方であること。律法は神が与えてくださった恵みであり、自分たちを祝福する書物であると知ることです。

 指導者たちは「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(10節)と語ります。

 しかし、民が律法を理解するためには、律法の「解き明かし」が必要でした。祭司やレビ人たちは「神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」(8)のです。バビロンにいたためわからなくなっていたヘブル語をアラム語に翻訳し、意味を理解していったのです。

 今日でも、聖書の解説は必要です。「罪」という言葉にしても、「義」、「贖い」も、聖書が意味する内容を説明されなければ、自分勝手に読んでいることになります。「主にささげられた聖なる日」(9、10節)の「聖」という言葉も同様です。ここは、「主のために、他の日とは区分された特別な日」と言うことです。だから、「嘆いたり、泣いたりしてはならない」「悲しんではならない」と勧めます。その理由が「主を喜び祝うことは、あなたたちの力の源である」(10節)からです。原意は「主の喜びは力であるから」となります。

 命令や禁止では力を与えられません。主を喜び、主を讃えること。それが、主が私たちに望んでおられることです。だから、その「聖なる日」に、上等の肉を食べ、おいしいぶどう酒を飲んだらいい、そういう豊かさに与れない人たちを招いて一緒に食べたらいい。主の日の礼拝が、それほどの喜びとなったらどうでしょう。

 こうした宴会は、放蕩息子のたとえでも出てきます。死んでいたと思っていた弟息子が帰ってきた。父親は喜んで、


「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」


そして、祝宴を始めた。(ルカによる福音書15章22〜24節)

となりました。神は、ご自分の民が帰ってくることを望んでおられます。それは、民がご自身の言葉である律法に、聖書に立ち返るということです。

 信仰生活の建て直しは、聖書に立ち返ることです。そのために日曜日を努力して確保すること、解き明かされるみ言葉に耳を傾けることでしょう。詩編の作者が書いているとおりです。「御言葉が開かれると光が射し出で  無知な者にも理解を与えます。」(詩編119:130)

 こうして、ネヘミヤ記の「城壁の再建」の話は、私たちに何を教えているのでしょう。

 主イエスは、エルサレムの神殿を指して「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)と言われましたが、イエスの言われた神殿とは、御自分の体のことだとヨハネは書いています(2:21〜22)。私たちにとっての教会再建は、イエス・キリストの復活に基づくものです。

 パウロは、信仰の組み立てとして、イエス・キリストを礎石、その上に、使徒と預言者、すなわち聖書を置き、その上に私たちが建て上げられていくというイメージを伝えます。そして、「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2:21〜22)と書いています。

 こうした比喩により、私たちの信仰を確かなもの、堅固なものにするよう勧めています。主イエスの言葉を聞き、それを行う人たちのことは「岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」(ルカ6:48)と書いています。そのような家は倒れないのです。私たち個人の信仰であり、共同体の信仰もそうでなければなりません。

 ネヘミヤの城壁再建事業に伴う、神の恵み、動き出して直面する苦難、それらひとつひとつを乗り越えていった知恵と行動。私たちの信仰をより堅固に建てあげていくことは、聖書のみ言葉を聞き続けること、そして主を知ること、それが主を喜ぶことにつながります。そして、「この主を喜ぶことが、わたしたちの力の源」になっていくのです。

 その力を、教会の復興のために注いでいきたいと思います。

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