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2022年9月25日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  絶えることのない賛美

               吉平真理教師試補

  聖書  詩編34編1〜23節

      コロサイ人への手紙 3章16〜17節

 詩編は、多くの場合に、詩人たちが一番言いたかったことを「一番最初においている」と言われます。つまり、結論が冒頭にくるのです。今日の34編も同じく、詩人の結論は冒頭でこう歌われています。

  どのようなときも、わたしは主をたたえ、

  わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。(34:2)

 英国の名説教家であったチャールズ・スポルジョンは、詩編34編を「この一編で、神に捧げる礼拝が成立している」と評したそうです。前半の2〜11節までは神を讃える「讃美」が、続く後半の12節〜23節では「説教」が、すなわち、主を求める者たちへの知恵の勧めと、褒め称えて信頼すべきその主とはどのようなお方なのかが記されている、というのです。また、その芸術性は、技法においても高く評価されました。4節にあるように、人々がひとつになって主の御名を讃えられるように、と願って作られ、人々に親しまれるよう、この詩の各節の冒頭はアルファベット順に並べられました。暗誦しやすくなるのでしょう。34編の数字の真下に(アルファベットによる詩)とあるのは、このことです。

  2  どのようなときも、わたしは主をたたえ

   わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。

  3  わたしの魂は主を賛美する。

   貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。

  4  わたしと共に主をたたえよ。

   ひとつになって御名をあがめよう。

  5  わたしは主に求め主は答えてくださった。

  脅かすものから常に救い出してくださった。

この詩人は、主にある幸いを知っている人であり、その幸いとは「主の御もとに身を寄せる人が 味わえる幸い」(9節)です。しかも「それを賛美せずにはおれない、喜び」です。例外はなく「絶えることなく」主への賛美がいつでも口にあることを意味しています。

  わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、

  それを聞いて喜び祝え(3)

 この詩人は貧しいのでしょうか。「貧しい人」とは、経済的に困窮している人のことだけではなく、悩み苦しんでいる人、身分の低い人、言いたいことが言えずに口をつぐむしかない人、そういう人をも対象にしています。それは、主イエスが、「幸いなるかな。貧しい人々。神の国はあなた方のものだから」(ルカ6:20)と仰ったお言葉に近いものです。この詩人は苦境の中で、わたしといっしょに主をたたえよう、と賛美に誘うのです。

 この詩編の背景となる舞台は、「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」(1)とあるように、サムエル記上21章10〜16節にあります。一介の羊飼いだった少年ダビデは、主なる神を蔑んだペリシテの勇者ゴリアトの暴言に黙っておれず、彼との一騎打ちに臨みます。主のみを頼みとしたダビデは、使い慣れた皮の石投げ機と小石だけを使ってゴリアトを仕留めるのです。しかし、この戦いでイスラエルに勝利をもたらしたダビデでしたが、その後、疑心暗鬼に陥ったサウル王から命を狙われるようになります。逃げ惑うダビデは、ついに敵国ペリシテの地、ガトに逃げ込むのです。このガトは、かのゴリアトの出身地で、早速、王の家臣に気づかれ、素性が知れてしまいます。そこで、苦し紛れにダビデは気が触れたように見せかけ、髭によだれを垂らし、門の扉を掻きむしって狂人を装うのです。ダビデは気が狂れている、と思い込んだ王は、危害を加えずそのまま彼を追い払います。このときのダビデは、人生のどん底にいました。それが、この詩の背景です。

 しかし、そうした中でも、ダビデの主への信頼は、揺らぐことはありませんでした。「信頼」「希望」「感謝」が、この詩編では歌われています。窮地に陥った時にこそ、主に信頼を寄せ、彼の力となり、この歌を生み出したのだと、分かります。「主を喜ぶは、あなた方の力である」、ネヘミヤの言葉のとおりです。(ネヘミヤ書8:10)

 皆さんは、作曲家の吉田正という方をご存知でしょうか。彼は、シベリアに抑留されていた時、過酷な労働を課された極限状態の中ででも作曲をし続けました。それは、歌が人に及ぼす不思議な力に、生き延びる望みを賭けたからです。望郷の想いを歌った曲を作り、それを皆で密かに歌い、故郷に帰還する望みを保ち続けました。後に、帰還者の方々が、彼がまず歌って聞かせ、そして皆で口ずさむようになった歌が、その日を生きる希望になって自分を守った、ヤケを起こさずに忍耐できた、と証言していました。彼は、ことあるごとに、歌え、歌うんだ、と仲間に勧めたそうです。

 苦境のダビデが主を讃えてやまないのは、讃美が、私たちの弱さや、置かれた状況の難しさに、私たちの思いを向けさせるのでなく、全てを統治される神の完全さ、偉大さ、聖さ、真実さ、誠実さ、私たちに賜る恵みと憐れみの深さへと、私たちの思いの焦点を向けさせるからだと思います。

 だから、6節7節にあるように、貧しい人が賛美によって主を仰ぎ見るときには、もう辱しめに顔を伏せることはないのです。自分でもなく、自分の置かれた環境でもなく、ただ、主を仰ぎ見ているからです。ダビデは狂人を装い、蔑みと辱めをたっぷりと味わったばかりなのに、「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱しめに顔を伏せることはない」(6) と言うのです。

5  わたしは、主に求め、主は答えてくださった。

脅かすものから常に救い出してくださった。

 この5節を、より原語に即して訳しますと、こうです。

  わたしは主を探し求め、主は答えてくださった。

  わたしの恐れのすべてから、わたしを救い出してくださった。

 苦境の中で、詩人ダビデは、主ご自身を探し求めます。それで、主は、「すべての恐れ」、また7節の、「すべての苦難」から救ってくださった、というのです。しかし、ここで大切なのは、ダビデは恐れが取り除かれるのを求めるのではなく、「主ご自身を」求めたことです。5節は「わたしは主に求め」ではなく、彼が求めたのは「主」なのです。彼は「主」を求め、主を見出すと同時に、彼にもたらした圧迫感、身動きさせなくしていた拘束力を、打ち破ることができるのは「主」だ、と気づいたのです。

 度々遭遇する苦難や困難を、私たちは「人生の嵐」や「人生の荒波」などに例えることがありますが、主は私たちに、それが起こらないようにはなさいません。むしろ、主は嵐の中の私たちを助けられ、ご自分の誠実さ、憐れみ深さを示されます。私たちがこの方なしに生きることはできないということを、嵐の中で教えられるのです。私たちが遭遇する人生の嵐は、主なる神のふところへと、私たちを深く深く押しやる機会になっていると言えます。

 脅かすものに追われ続けるダビデの生活は、この詩編を歌った後も続いていきます。しかし、それでも変わらずに、ダビデは主に信頼し続けるのです。何度、嵐に巻き込まれようとも、主に信頼し、主を求め、恐れからも敵の剣からも助け出され、その度に、主はどんなに誠実で恵み深い方なのかを知っていくのです。

 9節は次のように訳すことができます。

  なぜ、主の恵み深さを味わい知ろうとしないのですか。

 この方が、どれほど優しく、愛しみ深い方であるかが分かってくれば、自ずと主を賛美したくなるでしょうし、この方について、語らずにはいられなくなるでしょう。

 まず、主イエスご自身を求めましょう。苦闘する中で、恐れや悩みの中で、このお方を求めてみようではありませんか。この詩編は最後の23節で「主はしもべの魂を贖ってくださる」と語り、この方を「避けどころとする人は、罪に定められることがない」と断言します。

 私たちは、御子イエスの十字架の赦しを知る者たちです。私たちを神と和解させるために、主はご自身を罪の赦しの生け贄とされました。そこで流された主イエスの血は、たった一度で、人の罪を贖うことのできる完全な生贄でした。そのイエスを神は死者の中から復活させられました。それは、この方を信じる私たちが、主イエスのよみがえりの命に与って生きる者になるためです。私たちが、人生の様々な苦難の中で主を求めるときに、主の恵み深さを味わえるようにしてくださいます。主は、私たちがご自身を呼び求めるのを待っておられ、主は必ず応えてくださいます。その時、私たちは周囲の人々にこんなふうに言うのでしょう。「主は、こういう方なのです。主はこんな方だと知りました」、「わたしの知る主はこういう方です」、と。そのとき、私たちも、この詩編の結論となる2節に戻って来るのです。「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」

 そして今、救いに与った私たちは、互いにこうも言い合えるのです。

だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。

                                  ヘブライ人への手紙 13章15 節  

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