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2022年10月23日(日)秋のオープン礼拝説教I(要約)

  説教  福音——生きるよりどころ

                 吉平敏行牧師

  聖書  コリントの信徒への手紙一 15章1〜11節

 パウロの手紙ではありますが聖書です。この聖書とされたパウロの手紙から、パウロが伝えようとしている情報と思いを汲み取りたいと思うのです。冒頭を、手紙風に読んでみましょう。

みなさん、わたしがかつてお伝えした福音を、もう一度ここに記します。それは、今、あなたがたが立っている福音です。わたしが語った言葉に留まっていれば、それで救われています。そうでなければ、あなたがたが信じたことが、台無しになってしまいます。

 信仰は聖句を記憶することではありません。日々、御言葉にすがるというか、しがみつくように聖書を読み、その言葉に留まるのです。

 人の「救い」が「言葉」で伝わるということは驚きです。「救い」の言葉の一言、一言に意味がある。裏付けがある。そういう言葉で綴られた「福音」を信じていれば救われるのです。そして、救われた人が次の人に伝える。その言葉を聞いた人が信じて救われる。そのように福音は伝わってきました。

 パウロがここで確かめたかったのは、信者たちが日々よりどころにしている救いの根拠です。日々にせねばならないことはたくさんあります。その中で、私たちに平安を与えるものは何か。信じて良かったと言えるもの。信仰とは、そういうものでしょう。

 一日が終わり、床に就く前、「ああ、今日も色々あったけれど、無事に終えられた。神様、感謝します」と、感謝を捧げるようなことはあるでしょうか。そういう深いところで信仰を考えることを「生活のよりどころ」と言ったのです。健康も、お金も、仕事も、親のこと子供のこと、いろいろ考えることは多いのですが、それらは「生活のよりどころ」にはなりません。自分の正直な気持ちを問う時間、そういう中で信仰を考えます。

1. 福音とは

 「福音」という言葉自体は知られています。良い知らせ、天来の祝福をもたらすような知らせを「福音」と呼びます。その福音によって、かつてパウロの言葉を信じようとしなかったり、反対した人々を、パウロは今、「兄弟たち」と呼びかけます。こんな親しい関係を生み出したのも福音でした。

 パウロも、かつて福音に反対し、イエスの弟子たちを迫害していた人でした。そのパウロを、福音を伝える使徒に造り変えたのがイエス・キリストの復活でした。イエスの復活は、パウロにとって否定できない事実となったのです。そうした過去を振り返り、しみじみと「神の恵みによって今日のわたしがある」とパウロは言います。あなたたちとこんな繋がりができた。それも神の恵みである。

 パウロは、2回目の伝道旅行でコリントを訪ね、一年半滞在しました。ユダヤ人の会堂守りのクリスポとその家族が信じ、ガイオという人もパウロから洗礼を受け、パウロたちに住まいを提供しました。彼らは福音により生き方が変わりました。

 パウロが「最も大切なこと」と書くのは、当時話したことの中心です。その「福音」の中身となる事実は3つです。

 一つは、キリストは死なれた、ということ。死んだのですから、キリストは人だったのです。イエスとして生まれてきた方が、キリストであった、ということです。私たちと同じように生まれた日があり、飲み食いし、やがて弟子たちができて、公の場で伝える。奇跡や話で群衆を引きつけ、難問を突きつける学者たちを論破する。それゆえ憎まれ、不当な裁判にかけられ、十字架刑に追いやられる。つまり、キリストは人間に殺されたのです。人がキリストを殺した、ということです。

 二つ目は、キリストは死なれたゆえに墓に「葬られ」ました。人が死ねば、誰かの手によって墓に葬られなければならない。葬った人がいたのです。これも否定できない事実でした。

 三つ目が復活です。葬られたイエスの遺体が墓から消えていたのです。弟子たちですら、誰かが遺体を盗んだと思ったぐらいです。その死んだはずのイエスが、新しいからだで弟子たちに現れました。それが復活です。当時、それを証言できる人たちが多数生きていました。そして、最後にパウロに現れたのです。ですから、コリントの信徒たちにもイエス・キリストが復活したことは、疑いようのないことだったのです。

 もし、イエスが復活しなかったのなら、イエスはキリストでもなんでもなく、普通の人ということになります。パウロは、もしも死んだ者が復活しないとしたら、イエスの復活もなかった。キリストが復活しなかったとすれば、自分たちは嘘を伝えていることになる。そしたら、あなたがたが信じたことはむなしくなり、今もなお救われていない、と言うのです。ですから、「救い」と言っている全ては、キリストの復活にかかっていると言えます。キリストの復活こそ、福音の中心なのです。

 この3つの出来事にしっかりと繋がっていれば、救われているというのです。反対に、この3つを知らないと何を信じているのか、ということになってしまいます。

2. 救いを伝える聖書

 しかし、今から2,000年も前の手紙ですから、こう書いている聖書が信じられるのか、ということになってきます。

 何年か前、イギリス、マンチェスターのライランド・ライブラリーという古い図書館を訪ねたことがあります。そこには、膨大な本と様々な資料、遺物が展示されていますが、中でも紀元2世紀代に書かれたヨハネの福音書18章の数節のパピルス断片が有名です。さほど広くない展示会場に、分厚いアクリル版でしっかりと挟まれた黄色のパピルスが、光に照らされていました。そこに、温もりを感じさせる小文字のギリシャ語で記されていました。

 今、手にする新約聖書は、そうした数々の断片をつなぎ合わせて完成させたものです。ギリシャ語聖書の巻末には、新約聖書の断片の年代と現在の保管場所が記されていて、ライランド・ライブラリーもその一つでした。

 福音は、このような言葉を通して伝えられたものです。これだけの年月を経ても、人を救う神の言葉として力を持っています。神の言葉だから、人を救うことができるのです。命をもたらす真理を知らないまま、人生を終えたらもったいない。15章の中程に「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです」(15:34)と、相当厳しい言葉で書いています。神について、何を知っているかであります。

 福音とは、キリストの死と葬りと復活の知らせです。パウロは、この福音で救われると書きます。その中でも、信じなければならないことがある。それが「キリストがわたしたちの罪のために死んだ」というキリストの死の意味です。それがイザヤ書53章5〜6節に記されています。

  彼が刺し貫かれたのは

  わたしたちの背きのためであり

  彼が打ち砕かれたのは

  わたしたちの咎のためであった。

   ・・・・・・・・

  彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

  わたしたちは羊の群れ

  道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

  そのわたしたちの罪をすべて

  主は彼に負わせられた。

 私たちが負うべき罪をキリストが身代わりに負ってくださったのです。神も知らず、罪も知らず、自分で生きてきたかのように思っている罪深い人間を、キリストが罪を身代わり負って死んでくださり、私たちの罪を赦してくださった。それが「私たちの罪のため」の意味です。このキリストによる罪の赦しを信じる。これが救いです。

3.「今」のわたし

 改めて、自分はなぜ、今、ここにいるのか、と考えます。私たちは、キリストを見ていませんが、聖書の言葉を信じています。それが救いの根拠となります。

 私たちは生きています。いや、生かされている、と言って良いでしょう。パウロは「神の恵みによって今日のわたしがある」と言いました。そう言えるのが信仰です。時間は限られています。そうした中で、「今日、ここにいる」理由を、「神の恵み」と言える人は幸いです。

 今、私たちがすべきことは、自分には罪があると認めることです。しかし、その罪を、全てイエス・キリストが負ってくださったと信じるのです。キリストが死なれたのだから、私たちは自分で罪を負わなくて良い。この罪の赦しが福音です。その神の心は愛です。愛は、信じるしかありません。パウロは「わたしを愛し、わたしのためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる」と言いました。最終的に、私とイエス・キリストとの関係に行き着くのが信仰です。

 福音の言葉を信じることで救われます。神は「信じる者」を救おう、とお決めになられたからです。「神の恵みによって今日のわたしがある」と言える単純さに立ちたいものです。

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