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2022年10月30日(日)秋のオープン礼拝説教II(要約)

  説教  天に属する人の姿

                   吉平敏行牧師

  聖書  コリントの信徒への手紙一 15章35〜49節

 この度は、救いの情報としての「福音」とその中身を学びます。「救い」という言葉の響きに、「心が平安であること」とされる傾向があります。信ずべき内容と、信じることについて考えていかねばなりません。

 信仰には「考えるべきこと」と「信ずべきこと」とが含まれます。考える根拠のない教え、落ち着いて考察する隙を与えない教えは、感情の高まりと反応を求める危さを含みます。良心や理性の働きは大切です。しかし、それだけでは教養であり信仰とは言えません。信仰にはどうしても「信じる」という部分を欠くことはできません。「福音」には、出来事と、それが信じ難い部分が残っています。それゆえ、信じることが求められます。私たちにとっての信仰は、よく考え、信じ、信じたように生きる、という過程を通ります。

 ここに「福音」が、3つの出来事として記されます。一つは、イエスが死なれたこと、二つ目は、その体が墓に葬られたこと。三つ目が、そのイエスが三日目に復活したことです。イエスの復活には、当時の目撃者が多数いました。使徒たちが証言しています。そのイエスの死の目的は「私たちの罪のため」であったと聖書が伝えています。救われる根拠の一切は、聖書の言葉にあり、それを信じた人が救われ、神を礼拝しています。

 パウロは、その福音を「十字架の言葉」と呼びました。福音を信じて救われた者には、「十字架の言葉」は神の力となります。救いの一切は復活にかかっているのです。

 「復活」は、比喩として使われる分には、どなたも素直に受け入れるでしょう。2017年に、プロゴルファーのタイガー・ウッズが、夜道で車からふらふらと降りてきて、警察に捕まった時の写真は、目は虚ろで、無精ヒゲを生やし、麻薬常習犯のようでした。誰もが「ウッズは終わった」と思ったでしょう。ところが、2年後のマスターズで再び優勝する。新聞の見出しは「タイガー・ウッズ復活」となりました。しかし、誰も驚かないでしょう。その場合の復活は比喩として使われます。つまり、「復活」とは、「あり得ないことが起こる」ことの比喩なのです。

 しかし、イエスの復活は事実でした。キリストなら復活もありうるだろう、と思われるかもしれません。では、人が死んだ後、復活するのか、あの人、この人は復活するかとなると、ちょっとためらうかもしれません。

 私たちが、今考えているのは体の復活です。その「復活」は信じる外はありません。どれほど高額の献金をしても、復活できるわけではない。信じる外はない、それが復活です。体の「復活」を信じるかどうかが、キリスト教と言えるでしょう。

 パウロは、復活について考えさせたいのです。初めから「復活を信じなさい」ではなく、復活をどう考えるかと、いうことです。パウロは、まず自然を見よ、というのです。どんな植物、麦でも他の穀物でも、最初に種を蒔くでしょう。その、蒔いた種が地中で死ぬ。その後、芽が出て、次の植物が成長する。地中で種の形が崩れ、種が新たに地養分を吸収して違う形で伸びていきます。

 主イエスは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24) と語られました。

 2019年12月にアフガニスタンで銃撃されて亡くなられた中村哲さんの痛ましい事件についてはご存じでしょう。彼は、砂漠のような土地に灌漑用水路を作り、緑地に変えて、人々に産業の機会を与えました。その彼の命が奪われた。しかし、中村さんの志は次の世代へと引き継がれていきました。イエス様の一粒の種の比喩が当てはまる事件でしたが、それもまた比喩としての復活です。

 パウロは、復活とは「死んでから得る新しい体を得た命あるもの」と考えます。死んだ後、まったく新しい体が備わる。それが「復活」です。地上、天上の被造物を見れば、体にもいろいろな種類があることを知ります。

 朽ちていく弱さを表わす「肉」のリストが「人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉」です。「天井の体」と「地上の体」は、肉ではない「体」を備え、体の輝きが違う。太陽は光と熱を自ら発しますが、月は太陽の光を反射させています。星の輝きにも違いがある。だから、私たちの想像を超える輝きのある体があっても不思議ではありません。

 このように、信仰は直ちに観念や瞑想の世界に入るのではなく、地上や天上の目に見える物をとおして説明できます。今、輝きのない朽ちていくような肉体であっても、全く新しい体を持つこともありうるのです。

 パウロは「死者の復活もこれと同じ」と言います。朽ちるものが朽ちないものに、輝きのないものが栄光あるものに、弱いものが力強いものに変えられる。それが死を経た後の復活です。

 パウロは、「自然の命の体」と「霊の体」という言葉で説明します。「自然の命の体」は、だれの目にも見える人間の姿を持ちますが、「霊の体」は見えません。その「霊の体」のゆえに、他の動物とは異なる存在です。パウロは、自然の命の体があるのだから、霊の体もあると言います。そして、自然の命の体が死んで、霊の体が復活するのです。一粒の麦の種のように、死んで、新しい体を得るのです。それを、最初の人アダムは土ででき、地に属するものとして死んだけれども、第二の人、つまりキリストは天に属するものとして復活したと説明します。人間が体一つで人生を生きる。その体を使い切理、土に帰っていく。その後、その人の「霊の体」が復活するとすれば、その霊の体にふさわしい体で復活するというのです。こんな大胆な話、人間の想像を超えています。

 主イエスは、あるときこんな話をされました。

はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。

ヨハネによる福音書6章53〜54節

 この言葉に、ひどい話だ、誰がこんな話を聞いていられようか、多くの弟子たちが去っていきました。確かにひどい話ですが、私たちは、パンと盃を取りながら、これはイエスの体だ、これはイエスの血だ、と言って、聖餐に与ります。聖書の言葉は、比喩と現実とが交流している、全く別と考えない方が良いのです。聖書が比喩で語られるという意味が分かります。

 パウロは、私たちの体を「土の器」と言っています。そして「わたしたちは、輝き出る福音という宝を土の器に納めている」(参照:コリント二4:7)と言うのです。

 やがて朽ちていく自然の体に、霊の私がいる。朽ちゆく器に栄光の福音が入っている。私の自然の体に、霊の体が入っている。どんな形をしているか分からない。生きている間に命の言葉で養われ、人として豊かに成熟し、やがて自然の体が朽ちていく。しかし、私の内の「霊の体」が「天に属する人の姿に変えられる。」これが、私たちが信じる復活です。この復活をもって、「救い」が完成します。お金で救われると教える教えは、人間的な極めて陳腐な教えと分かります。あなたの体は復活しますか、と尋ねれば良いのです。

 こうして、信仰には、地上の経験では全く想像がつかないものを信じる要素が含まれます。聖書の言葉を信じて救いに与った者は、復活を聖書に基づいた体を持ったものと考えます。

 イエス・キリストの死と葬りは、「自然の命の体」の終わりでもありました。三日目の復活は、「霊の体」の現れでした。そのような存在、物体は地上には存在せず、弟子たちにも不思議でした。さらに、イエスは弟子たちが見ている目の前で、「自然の命の体」のごとき姿で天に昇っていかれました。イエスが神の子であることは、復活して明らかになったのです。見えなければいないのではありません。聖書は見えないものこそ永遠であると教えます。

 人生の山場を超えれば歳とともに弱っていく体。一生、体の不自由を負って生きていらっしゃる方もおられます。人生途上の事故や病気のために、健康を損なう人もいます。なぜ、それほど辛い思いをして、生きていかねばならないのか、その理由は知らされていません。しかし、だれでも持つことができる希望がある。それは、この不自由な体からの解放です。そこに私たちの「体の復活」への希望があります。

わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

ローマの信徒への手紙 8章24〜25節

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