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2022年11月6日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  信仰の言葉

               吉平敏行牧師

  聖書  申命記 30章11〜14節

      ローマの信徒への手紙 10章5〜13節

 福音について学んできましたが、私たちは「救われるためにどうすべきか」という問いをもう一度問うて見る必要があります。パウロの答えは「主イエスを信じなさい」の一言でした。フィリピの看守は、神を信じたことを家族ともども喜んだと書かれています。(使徒16:34)「主イエスを信じる」ことで確かに救われたのです。

 パウロは、福音の中身はイエス・キリストの死と葬り、そして三日目の復活であるとします。そのイエス・キリストが死なれた理由が、私たちの罪のためであったと聖書は記しています。

 しかし、ユダヤ人たちは与えられた律法を誇りとし、律法には知識と真理とが具体的に示されていると考え、その律法を守り行うことによって神から義とされると信じていました。一方異邦人は、福音を聞いてイエス・キリストを信じれば救われる(義と認められる)と理解したのです。当時であれば、聖霊の証印も伴ったでしょう。ユダヤ人からは罪人として見下されていた異邦人が、イエス・キリストを信じただけで、ユダヤ人たちが切望した罪の赦しと救いを得たのです。しかし、神からの義を熱心に求めていたユダヤ人たちは、その義を得られなかったのです。

 パウロは、ユダヤ人が神の義を得られなかった理由を「つまずきの石につまずいた」と書いています。彼らは、熱心に神に仕えていましたが、その熱心さは、正しい認識に基づくものではありませんでした。彼らは、自分の義、自分の正しさを追い求めようとして、神の義に従わなかったのです。

 これは、今日の私たちへの警告になります。ユダヤ人にとっては律法と伝承を守ることが大切でした。今日の私たちは、聖書と教会の伝統を守ることが救いになると思っているかもしれません。神の義について検討してみる必要があります。自分では、神の義を追い求めていると思いながら、実は、自分が正しいと思うことしているに過ぎず、神からの義ではない、ということも起こり得ます。

 では、自分勝手な救いの理解に陥らないようにするためには、どうしたら良いのでしょうか。

 5節で「モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています」とあります。 ここはレビ記18:5の「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」の引用です。その「これらを行う人はそれによって命を得ることができる」を、新共同訳は「掟を守る人は掟によって生きる」と「掟を行う」を「掟を守る」と訳しかえています。大切なことは「掟を守る」かどうかより「掟を行う」かどうかです。書かれた掟を行うことによって生きることができる、が律法の考え方です。パウロは、そういう義の求め方が、本来の「神の義」ではなく、自分が掟を行う自分の義、自分が考える正しさを求めることになっていった、というのです。

 そこで、パウロは、5節以降で神の義についての正しい考え方を伝えます。律法は、本来良いものなのです。その本来良いものが、体がもつ弱さ(それをパウロは「肉」と呼びます)のゆえに、人間の罪のゆえに、その良いものを悪用してしまうのです。それが、神から離れ善悪を知ってしまった、人間の罪の結果です。

 考えてみたいのはローマ3章21節の言葉です。

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

 「関係なく」と訳された言葉は、「区分されて」あるいは「別に」という意味です。律法とは別の方法で、と言った方が良いでしょう。律法という書かれた文字を守り行うことによって得られる義ではなく、キリストを信じることによって与えられる義。全ての人、ユダヤ人だけでなく異邦人にも、万民に通用する義が、時いたって神によって与えられた。それがイエス・キリストである、ということです。

 では、10章5節の「律法による義」はどうなるのでしょうか。パウロは、律法の中にも、「信仰による義」は語られているというのです。それが6節以降です。

 ここは申命記30章11〜14節の言葉です。律法を完全に守り行うことはできない、と言われますが、モーセはそうは言っていません。

わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。

 その手がかりが14節「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」です。パウロは、この言葉を引用し、これが「信仰の言葉」であるとします。

  申命記30章11〜14節は「信仰による義」について書かれていると言い、パウロはそれをキリストが来られた今「信仰の言葉」となっているというのです。律法の役割は、キリスト以前とキリスト後で変わったのです。

 パウロは、律法による義を理解させるために、申命記の言葉を「だれが天に上るか」とか「だれが底なしの淵に下るか」とパウロの言葉で訳し変えたのです。

 12節の「それは天にあるものではないから」の「それ」とは究極の律法です。それは天にあるのだから、だれかが天に昇り、それを取って来て聞かせてくれれば、自分たちは律法を完璧に行うことができるのだが、などと言わなくて良い、というのです。パウロは、「心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない」と厳しく禁じます。なぜなら、あなた方は、その究極の律法がキリストであることを知っているから、「だれが天に上るか」と言うことは、今や天に上られたキリストを引き降ろすことになる、と解釈するのです。

 次の申命記30章13節の「海のかなたにあるものでもないから」以下も、同じように解釈します。パウロは「海のかなたにあるもの」を「底なしの淵」と訳し変えています。原語は「奈落」とか「地獄」という意味です。使徒信条では「黄泉」とされています。「これは、キリストを死者の中から引き上げることになる」と言うのです。ここの分かりづらさは、「死」と黄泉と、どちらが深いかということにあります。キリストは死よりも深い黄泉にまで下りていかれたのに、その深いところまで下りたキリストを認めずに、単に肉体の死から救い出したなどと考えるな、ということです。「黄泉」の深さは計りしてないものです。

 私たちは、キリストがその黄泉にまで降られたことを理解していたでしょうか。

 こうして、パウロが律法に解釈を加えた上で、結果的に同じ結論を述べます。

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

 パウロは、5節で「信仰による義」とした箇所を、8節では「信仰の言葉」と解釈しています。パウロは、キリストの十字架と復活、昇天が実現したのだから、今はそれが記された御言葉に信頼すれば良いと言うのです。

 パウロは、「口」「心」という言葉を頻繁に使って胃ます。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)が聖書の見立てです。そういう罪深い人間が、心で信じていることが口から出てくる。罪人の心の奥底には、様々な悪い思い(ガラテヤ5:19〜21)がヘドロのごとくこびりついている。そんな誰も手をつけたくないようなところにまで、キリストが下り、人間の罪を洗い清め、赦してくださって、初めてイエスを主と告白できるのです。それを「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言うのです。単に口で告白しさえすれば救われると言う話ではなく、キリストによる罪の赦しがなされたと信じて告白することに意味があります。パウロが「底なしの淵」と呼んだその罪からの贖いが主キリストによってなされたのです。

 こう考えますと、もはや律法を守り、それをきちんとやり遂げようなどと言う考え方を愚かと思うことでしょう。律法を全うされたキリストが、今や天に上っておられる。そのキリストを仰ぐのです。そのキリストが、底なしの淵にまで下ってくださったから。私たち罪は完全に贖われたと信じるのです。

 この深みにまで下られたキリストを知ったときに、私たちは自分でも全く気づいていない罪をも完全に赦されたと知るでしょう。そういうイエス・キリストによる罪の赦しの大きさを信じない内は、罪の深みもキリストが死んでくださったありがたみも分かっていないということになります。

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