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2022年11月13日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  信仰による義

                吉平敏行牧師

  聖書  申命記 6章1〜15節

      ローマの信徒への手紙 3章21〜31節

 福音とは何かをお伝えしてきました。福音の中身はイエスの死と葬り、三日目の復活、そして救いとはイエス・キリストによる完全な罪の赦しであるということです。今や、キリストは「底なしの淵」から引き上げられ、新しい体を得て天に上り、神の右の座に就いておられます。

 パウロは、この福音について「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(1:16)と言います。福音は神の力であり、私たちを救うことができるのです。

 ローマ書では「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」(1:2〜3)と言い、ヘブライ書では「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(1:1〜2)と書いています。聖書がイエス・キリストご自身の現れとその出来事を証言しています。

 その福音に「神の義」が啓示されている、と言います。ですから、神の義を知るためには、どうしても福音を聞くことが必要になってきます。

 しかし、「神の義」とある「義」、そのものを正しく理解していたでしょうか。「義」には、「社会的に正しいと認められていること」として正義とか義務という使い方があります。あるいは、実際はそうではないけれども、社会的にそう言える、といった使い方として、義父、義理、あるいは義歯、義足とも使います。そして、特定の集団や個人にとって重要な教義や主義といった使い方。特に、聖書では、その「義」を法廷用語と考えます。神の国の法廷において「正しい」あるいは「罪なし」とする。もっと言えば、神による完全な正しさとしての「義」です。

 ですから、神の義を、自分が想像し得る「義」、つまり社会的な正しさから考えてしまうことは注意せねばなりません。私たちは、イエス・キリストを信じて神の民とされ、神の国に生きる者として「神の義」を考えています。

 申命記6章では、約束の地に入ってから守り行うべき掟と法として律法が考えられています。唯一の神が与えられた律法を守り行うことによって豊かに生きることができるという約束です。では、律法を持たない異邦人はどうなるのか。神が唯一とすれば、ユダヤ人のみならず異邦人をも救うことのできる神でなければならないのではないか。ところが問題は、その律法を守ってきたユダヤ人が救いに与れず、福音によってイエス・キリストを信じた異邦人が救われるということにあります。

 パウロは、律法を持つユダヤ人には、律法によっては罪の自覚しか生じない。その結果、元々罪人とされていた異邦人と共に、すべての人が罪の元に閉じ込められたことになると言うのです。そうなると、唯一の神は、ユダヤ人だけでなく異邦人をも救う方法を与えなければならないことになります。それが、イエス・キリストによって始まる福音による神の義なのです。

 こうしたパウロの話の進め方を読むと、私たちが得ている救いは、非常に筋の通った論理的なものと思えます。それは、私たちが持つ理性とか知性をも満足させるでしょうし、感性をも満たすはずです。多彩な世界を造り、守っておられる神が多彩であると考えても不思議はありません。そのご性質も、申命記6:15では「主は熱情の神」と書いています。ここは「妬む神」が良いでしょう。ご自分の民が、他の神々に心惹かれることを快く思われない方でもあります。了見が狭いとか、もっと寛大であるべきだ、との反論は、人間の側の勝手な論理です。人間を造られた人間の心を知る神であることも、神の義を知るには必要です。

 今日の「律法とは関係なく」(3:21)は、「別に」とか「別の形で」と訳した方が良いという話をしました。「今や」ここに来て、神が新たな救いを啓示されたのです。それは、ユダヤ人だけではなく異邦人をも救う神の方法です。それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」というのです。信じる以外にこの義をいただく方法はない。1:17節で言うように、福音は徹頭徹尾信仰によって理解できるものなのです。

 どういう点で「律法とは別に」と言えるのか。私たちはイエス・キリストに、その「別に」が当てはまるかどうかを吟味する必要があります。

 一つは、主イエスの出生です。イエスは、ダビデの家系であるマリアとヨセフの子として生まれました。マリアの胎に懐妊され、マリアからお生れになりましたが、それは聖霊の力によるものでした。パウロは「女から、しかも律法のもとに生まれた」(ガラテヤ4:4)と書いていますが、全く別次元のお生まれです。

 そのダビデの家系を遡るとヤコブの子のユダに達します。ユダは、律法では特別な人物として扱われていません。イエスはモーセやアロンのようなレビ族、祭司の家系ではありません。にもかかわらず、イエス・キリストは大祭司となられたのです。家系から見ても「別に」です。

 アブラハムの話に、突然メルキセデクという祭司が現れる場面がでてきます。アブラハムがカナンの王4人と戦って、甥のロトを奪い返したときに、唐突にサレムの国のメルキセデクが「いと高き神の祭司」として現れます。「平和(サレム)の義(ゼテク)の王(メルク)」という意味です。その場面でも、パンとぶどう酒を持って現れます。その出生は全く不明です。どう考えても唐突です。ところが、詩編110編4節に「あなたこそ、永遠に、メルキゼテクと同じような祭司である」とあります。これはキリストのことを預言したダビデの言葉です。

 ダビデの家系は王の家系であり、祭司の家系ではありません。そのイエス・キリストがメルキゼテクと同じ祭司とみなされ、今や天において罪人のためにとりなしておられる。罪の赦しのための生贄は、イエスご自身の傷のない体でした。パウロは「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(25)と書いています。神がキリストを大祭司としてお立てになられたのです。神がそう宣言なさったのです。これも、律法とは別の形でした。

 こうして、イエス・キリストによって神の国が訪れた時、律法とは別の祭司制度が導入されたことが示されています。それまでイスラエルを統治していた律法は、神の右の座に就かれたイエス・キリストによる統治へと転換されたのです。旧来の律法に基づく祭司制度は、イエス・キリストによる完全な罪の赦しがなされ、古いものは必要がなくなったのです。

 パウロは、「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(26節)と言います。この「義」、神ご自身が正しい方であることが明らかになりました。そして、イエスを信じる者を義とされることになったのです。もはや、律法を行なっても到達できない「神の義」が示されたのです。

 そこでヘブライ人への手紙7章25節でこう言います。

この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。


 今、私たちは、神が導入された、この祭司制度の中で、主イエス・キリストを大祭司とする罪の赦しを受けることができるのです。だから、私たちは神に近づいて、救いを求めるのです。

 日本は科学が進歩し、いわゆる先進国の中に入り、外国からの方々もたくさん住んで、社会では多様な価値観が求められています。にもかかわらず、そうした多様性に対応できる法制度が整っていません。その歪みが、いたるところに現れています。

 私たちも、これまでの聖書の読み方、教会の伝統を守り行えば救われるという話ではなく、神が導入されたイエス・キリストを信じる信仰による救い、与えられる神の義を知り、罪赦された者として豊かに生きる時代が来ているのです。自分が思い描く義ではなく、神が示された「神の義」を知ることが必要です。

 今や、私たちは完全な罪の赦しを成し遂げられて、天において大祭司としてとりなしてくださる方の元に生きています。そのような神の国に生かされていることの意味を考えたいと思います。

 まだ生かされている間に、神の救いの喜びに与っていただきたいと思います。

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