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2022年11月27日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  聖霊による神の愛

                 吉平敏行牧師

  聖書  申命記 8章1〜10節

      ローマの信徒への手紙 5章1〜11節

 信仰には入口があり、その奥にさらに道は続きます。しかし、その入口と奥の道までに様々な葛藤が起こります。進むべきか、引き返すか。思いは右に触れ、左に触れ、再度引き戻されて、自分の信仰を見直す。そのような経験を通ることがあります。

  信仰は単純です。信じる、ということだけです。ちょうど、独楽が一本足で回り続けるように、信仰の一点が押さえられていれば立ち続けます。

 パウロは「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」(5:1)と書きます。イエス・キリストを信じたのだから、神に対して疑念や敵意ではなく平和ができている。それを、「和解」(11)と言います。

 人間的にみれば「和解」とは、争っていた両者が、相手の言い分を受け入れ、両者納得して、今後争いはしないという状態です。しかし、神と人間との和解は、そういう関係ではありません。そもそも人間は神と争っている意識がありません。そこにあるのは、神への無知。恵みをもって生かしてくださっている神からすれば敵対している。それが人間と神との関係です。

 例えば、敗戦国が仲裁国のゆえに戦勝国と和解し、平和が訪れたという状況を考えてみましょう。まずは戦いを終えます。しかし、その平和は過渡的であり、本当に納得のいく和解の上に立つ平和かどうかが問われます。戦勝国は、仲裁国のゆえに和解に応じた。一方、敗戦国は敗戦を認めた上で和解したのか、それとも、まだ根深い反発や不満を持っているのか。ところが11節では、「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」、その後に「今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」となっています。つまり、神に敵対していた罪人が、今や神を誇りとしている。これで、不承不承ではありません。和解に至る一切をなしてくださった神を知り、そういう神を誇りとしている、というのです。

 これは、全く変えられた人の言葉です。人に促されて始まったような信仰から、その意味がわかり、神を誇りとするとまで言う。ここに「神との真実な平和」が成り立っています。

 私たちはそこまで考えてきたでしょうか。2節は「この方により、信仰により、今、立っているこの恵みにつながったので、神の映えある希望を誇りとしています」と訳せます。信仰によってこの恵みにつながった。今、その神の恵みに立ち、その神から与えられる希望を誇りとする、ということです。

 「希望」には明るさがあります。しかし、パウロは希望に伴う苦難についても誇るというのです。これは、私たちが思い描く希望とは異なります。その苦難には意味と目的がある。苦難から忍耐が生まれるという。ヘブライ書に「神の御心を行なって約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」(10:36)とあります。その忍耐に「練達」が生まれる。忍耐の結果として、人格的な成長、成熟が期待できる。苦難の中で真偽を見極める目も養われるでしょう。それが経験となっていく。これは、宗教的な敬虔さとか信心深さといったものではなく、苦難を通ることが人柄にまでなっていくということです。そこに希望が生まれる。その希望は、かつての漠然とした淡い希望ではなく、苦難を通った者としての希望と言うことです。

 仮に、その苦難に耐えられなかった場合でも、神様は脱出の道をも備えていてくださいます。ルカによる福音書11章10〜13節に「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・・あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とあります。

 天の父は、求める者に聖霊を与えてくださいます。その聖霊が神の愛を教えてくださるのです。では、神が愛であることをどうやって知るのでしょう。その説明がローマの信徒への手紙5章6〜8節です。

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 7節の「正しい人」と「善い人」について、私たちとしては正しい人のために死ぬ人がいるのではないかと思うのです。この「正しい」は「義」の方です。パウロが言わんとするのは、義のゆえに過激な行動に出る人のために死ぬという人はほとんどいないということです。むしろ、人々から「良い人だね」と言われるような人のためには、もしかすると命を惜しまない人もいるかもしれない。しかし、何れにせよ罪人であることに変わりなく、そういう罪人に自分の命を投げ出すような人がいるであろうか、というのです。キリストはその罪人のために死んでくださった。そういうキリストの行動から、神の愛とはどのようなものであるかを知るのです。私たちはその愛がわからないので、その愛がわかるようにご自分の御子を遣わされたのです。愛は直接感じるものではなく信じるものです。

 神との平和は、御子イエス・キリストを信じることにより与えられました。私たちが何かをしたというのではなく、イエス・キリストのゆえに罪の滅びから救われたのです。それを、「キリストの血によって義とされた」と言うのです。キリストの血のゆえに罪が赦されたと考えるのです。

 しかし、10節には「御子の死によって神と和解された」とあります。これは大祭司カイファがイエス様について「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(ヨハネ11:50)と言った考え方に通じます。神に敵対していた全人類のために、一人の人、御子イエスが死なれることによって、全人類が滅びないで済んだのです。イエスの血によって罪の赦しが与えられ、イエスが死んでくださったことにより、罪赦された者たちが滅びから救われるというのです。

 こうして、これまで思い描いていた希望の浅さに気づきます。これまでの理解ですと、神を信じたにもかかわらず苦難が起こる意味が分かりません。神を知らない方々の希望とそう違いがなくなります。むしろ、神を知っているがゆえに、神に対して文句を言い始めます。そうではなく、私たちは、通る苦難の中にも希望を見出せる希望である、ということです。

 では、苦難を通りながら見出せる希望とは何か。それは、苦しみの中で本物と偽物とを見分ける識別力が与えられ、それがその人の人柄になっていくということです。その積み重ねの上に、見えてくる希望がある。それが、神が遣わされる聖霊によって神の愛が分かってくるということです。

 聖霊を求めることは間違ってはいませんが、聖霊はすでに遣わされ、今は聖霊がおられます。私たちは、神の御子イエスの死は、「血」で罪の赦しがなされ、「御子の死」によって神との和解が保証され、それらの上に成り立つ神との平和であると知ります。そして、これらを通して「神は愛である」ことを教えてくださっているのが聖霊です。こうして、私たちは聖霊によって神の愛を知り、ここまで完璧な救いをなしてくださった神を誇るのです。

 申命記8章のみことばを見ましょう。


主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。 ・・・あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。 ・・・あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。


 こんなにも大きな救いをなしてくださった神を知るとき、私たちは、神は私たちに対して怒ってはおられない、神はこんなにも豊かなものを備えてくださっている方だと知るのです。このような神を褒め称えます。

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