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​2022年12月4日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  御言葉は成就する

                 吉平敏行牧師

  聖書  ムエル記下 7章8〜17節

      ルカによる福音書 1章26〜38節

 何でもできる、不可能はない、そういう存在を、私たちは「神」と呼び、神をそういうものと考えてきました。実際に、聖書では「全能者」と書いています。神はアブラハムに「わたしは全能の神である」(創世記17:1)と告げられました。

 確かに、「全能、不可能はない」は神に相応しい言葉です。それは、被造物一切を支配していることを意味します。パウロは、被造物は「虚無に服した」(ローマ8:20)と言います。それゆえ、「同時に希望も持っています」とも書きます。

 しかし、その被造物の中で、唯一、人間だけが他の被造物とは異なっています。人は神に対して罪を犯し、人間の善悪の判断に基づいて、神に代わって被造物のみならず同じ人間までも支配するようになりました。神に従う自由も従わない自由も、自分で選べると考える。それが、今も私たちが見る人間の罪ある世界の現状です。

 ですから、「神にとって不可能はない」と聞いても、それは神ならそうだよね、とか、「そもそも神などいるのか」などと非常に冷ややかに見ています。自分で考えて、正しいと思う道を選んでいく方が良い、そうするしかない、と思っています。

 そうした理性で考えるとき、神を全能者とするにしても、処女降誕などない、復活などあり得ない、と思っています。そういう異邦人、特にギリシア人を念頭に、医者でもあった著者ルカは「わたしもすべての事を初めから詳しく調べています」と書き、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」(ルカ1:3〜4)と、この福音書を書いたのです。

 26節の「6ヶ月目」とは、祭司ザカリアの妻エリサベトが懐妊してからの期間です。エリサベトは不妊の体であり、高齢で、子供が与えられることはどう考えても無理でした。しかし、天使がザカリアに語ったとおり、エリサベトは懐妊し、5ヶ月ほど自宅にこもり、周囲にも懐妊が明らかになった頃にこう言います。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(25節)。人々が羨むような祭司の夫の傍らで、周囲の誹りに耐えてきた一人の女性にも希望が与えられたのです。「主が目を止めてくださる」ことが、様々な抑圧に耐えながら神を信じて生きる者にとっての希望なりました。

 その6ヶ月目に、同じ天使がマリアに「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と伝えます。彼女が驚いたのは、天使の祝福の言葉であり、身ごもって男の子を産む、その名前まで決められている。信じがたいことの数々がその場で伝えられたのです。彼女は、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と尋ねるのが精一杯でした。

 アブラハムの妻サラが不妊の女性であったこと、預言者サムエルを産んだハンナも長い間子供が与えられず、夫のもう一人の妻からいじめられたことが記されています。聖書では不妊の女性が、神の国において大きな役割を担っています。それは、パウロによれば、産みの苦しみを経験しない女性が、子供を産む女性よりも多くの子供を得るという、祝福として理解されます。その「産みの苦しみを知らない女性たち」が、信仰によるアブラハムの子孫を星の数ほど生み出していく、それがキリスト者である、という解釈に繋がります。

 しかし、マリアはサラやエリサベトのように不妊ではありません。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」とは、まだ夫と関わりがないのに、子供が産めるはずがないではないですか、ということです。何も無い状態の自分が息子を宿す、ということです。

 私たちは、イエス・キリストの降誕を、幼子イエスの誕生から考えますが、実は、イエス・キリストの降誕は、天使の受胎告知によるマリアの懐妊から始まります。お腹に赤ちゃんができたらしい、と感じて女性は喜び、それを夫に伝えるでしょう。夫も妻の懐妊を喜ぶ。そして、その子が生まれたらみんなが喜ぶでしょう。

 しかし、懐妊はマリアの胎内で起こることであり、他の人には知られません。それが後に、大変なことになるのですが、この時は驚きばかりです。神が介入されたがゆえに、人生に悩みが生じるという、最たる出来事、それが処女降誕でもあります。

 天使ガブリエルから一方的に告げられた約束は、その息子が王様になる、しかも彼は、永遠にイスラエルを治め、その支配は終わることがないというメシアに匹敵する知らせです。天使が告げるメシアと、その子を自分の胎に宿すということがどう結びつくのでしょう。それがサムエル記下7:12での預言者ナタンのダビデ王に関する預言でした。

 「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」

 天使はマリアの問いに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と答えます。それを実現させるのは聖霊である。ペンテコステでは、全ての弟子たちに聖霊が降りましたが、ここではマリアにだけ聖霊が降ります。ナザレの名もない処女が選ばれ、天使から神の計画が伝えられ、それは聖霊なる神の力によってマリアの体に実現します。しかし、その時、マリアには聖霊の力が感じられてはいません。ここに、聖霊の力によってマリアの胎内に新しい創造が起こったのです。神による新創造が、静かに人の体に起こったのです。

 神が「光あれ」と言えば、光ができるのです。それが、神が全能であるということです。神にとって不可能はないのですが、もし、人間が、神の言葉を拒むのであれば、神の業は起こりません。全ての創造は神の言葉によったのです。神の言葉を受け入れない、神の言葉を伝える天使や、預言者、使徒、そして、今日神の言葉を取り継ぐ者たちを軽んじるところでは、神の業は起こりません。

 マリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」の言葉は、天使の言葉をそのまま受け入れる、との謙虚な姿勢です。神の言葉を受け入れたゆえに、このマリアに、神の言葉が一つ一つ実現していきます。

 後にエリサベトはマリアから話を聞いて、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言います。マリアは、天使の言葉を「信じた」のです。神の言葉を謙虚に受け取ることが信仰であることを教えています。

 マリアの胎内には、天使の言葉を受け入れたとき、瞬時に男の子が宿ったのでしょう。しかし、彼女が懐妊を知るのは後になってからです。自分の体で実感するにはさらに時間がかかります。これは、私たちが御言葉を受け入れるのと同じです。パウロは「キリストがあなたがたの内に形づくられる」(ガラテヤ4:19)と書いています。


 イエス・キリストが私たちの内に住まわれるということは、目で見るもの、実感することではありません。ただ神の言葉による、ということです。イエス・キリストがわたしたちの内に住まわれるとは、聖書の言葉が、私たちの身に実現するということです。


 パウロはこう書いています。


信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。

コリントの信徒への手紙13章5〜6節


 あるいは


信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように

エフェソの信徒への手紙3章17節


と、書いています。

 キリストが私たちの内に住む、とは、体のどこかにキリスト様が場所を占めるというようなことではありません。形すらありません。私たちは、信仰により、御言葉によってキリストを宿す者として生きていくのです。

 イエス・キリストの降誕は、幼子イエスが生まれるバースデー・パーティーのように喜ばれる前に、マリアの胎内に、誰にも知られることなく聖霊により命が生まれたことを知り、それが神の約束の実現として祝うのであれば、意味があります。

 パウロは「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(コリント二4:6)と語りました。キリストが私のうちに住んでおられる、そのキリストが輝いてくださる、という恵みを味わうクリスマスでありたいと思います。

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