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2022年12月18日(日)主日礼拝説教(要約)

  説教  心清き者は、神を見る

                吉平敏行牧師

  聖書  サムエル記上 1章12〜20節

      ルカによる福音書 1章39〜45節

 「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ5:8)しかし、聖書は「いまだかつて、神を見た者はいない」(ヨハネ1:18)と書きます。神は見えません。信仰があるから見えるというものではありません。しかし、見えないからと言って、「いない」ことにはなりません。聖書は、信仰は望んでいることを確信し、見えない事実を確認すること、と定義しています。

 では、見えない「神」を見るとはどういうことなのか。そこに、何らかの手がかりはないのか、と思います。

 「心の清い人々」の「清い」には「道徳的な罪(意識)から自由にされている人」という意味があります。宗教的に「穢れがない」とか「純粋だ」というような漠然とした「清さ」ではなく、道徳的に罪を犯していない、咎めがない、ということでしょう。

 そうしますと、清い心に神は見えてくる、心に咎めのない者には神は見える、ということになります。心が沈み、曇っていたら神は見えづらくなるのです。

 心を曇らせる覆いについて、パウロは


今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。

コリントの信徒への手紙3章14〜15節


と書いています。会堂で律法が読まれるたびに心に覆いがかかる。聖書の言葉によって、戒めが自分を責め、咎めを感じて、心に雲がかかってしまう状況を作り出してしまう。では、何ら法や規則がなく、自由にさせておいてもらえば、義務感も罪責感も生まれず、心に覆いもかからず、心が晴れていられるのか? 人の心は、そんなに鈍感ではないでしょう。

 もう一度、聖書の約束に基づいて、我々の心を捕らえていた活字の戒めから目を離し、霊であるイエス・キリストとの交わりができるなら、私たちは解放されていくでしょう。法により、心が沈み、曇るような状況でも、その雲の上では太陽が照っているように、私たちの心の思い、煩いの曇りを超えたところに主イエスはいつもおられます。その主イエスに目を向けるなら、雲は去り、再び私たちの心に光がさして、神を讃美するでありましょう。

 イエス様誕生の場面で、マリアは主演、ザカリアとエリサベトは助演的な存在といえます。その中で、エリサベトの「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」の一言のゆえに、私たちの目はマリアの信仰に向けられ、彼女の言葉が輝き出します。マリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」の言葉こそ信仰であり、それをエリサベトが「主が語られたことは必ず実現すると信じたこと」として受け止めたのです。

 神は目に見えませんが、周囲の様々な事柄、人との関わりで状況が動いていくことに、不思議を感じる人がいます。ある人々にはそれがいつもどおりと思われるでしょう。しかし、ある人たちには、神が導いていると思える。クリスチャンは、ことが神から出ていることかを見分ける経験を積み重ねていきます。もし、澄んだ目、清い心でいられたら、神の業として見えてくることでしょう。

 もし、自分の目で見たことを、自分の善悪に基づいて判断していると、神のご計画は人の思いを超えていますから、神の導きを見落とすことにもなりかねません。安易に人を裁くことはできません。

 「心の清い人」とは、「主の言葉は必ず実現すると信じる」人であり、心の清さは、主が語られる霊としての御言葉を素直に受け止める、柔らかな心ということになります。

 そうすると、天使ガブリエルから「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」と伝えられた言葉に、ザカリアが「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」 と言ったのは素直ではありません。常識はそうですが、神の御計画は常識を超えていたのです。

 そこで、天使が 「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる」と言ったのは、神の裁きというよりも、「口が利けなくなる」という特別な印によって、ザカリアに神の言葉は実現することが分かるようにという、神の配慮とも言えます。天使の「時が来れば実現する」という約束に、事が実現した時、それが神の業と知るのです。ザカリアの口はいっとき閉ざされ、一人静かに、神と向き合うことになったのです。

 一方、聖書には目が見えなくなるケースも起こっています。イエスの弟子たちを迫害していたパウロは、ダマスコへ向かう途中で復活の主イエスに出会い、目が見えなくなります。ダマスコでイエスの弟子アナニアの訪問を受け、アナニアが祈ると、目から「うろこのようなもの」が落ちて、再び目が見えるようになりました。パウロは「聖霊に満たされ」、心の目まで開かれ、復活のイエスこそ「神の子」であると知ります。

 エリサベトも、周辺で数々の不思議な出来事を見たり、聞いたりしていました。ある日、突然、夫のザカリアが神殿での奉仕の最中に口が利けなくなったこと。やがて、自分の体に子が宿ったことを実感します。彼女も5ヶ月間家にこもり、外の世界から自分を遮断しました。そして、誰の目にも懐妊がわかるようになった時に、


主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。 (1:25)


と神を証します。それから1ヶ月後、思いがけず姪が訪ねてくる。マリアがエリサベトの家に向かったのは、天使からエリサベトの懐妊について聞いていたからです。

 マリアは、どんな思いでドアーをノックしたでしょう。エリサベトが戸を開けると、 目の前に姪が立っている。おそらく、マリアはユダヤ人の「シャローム」から始めたでしょう。そのマリアの肉声に反応して、エリサベトの胎内の子が踊ったというのです。

 エリサベトは胎内の子が踊ったことについて、夫に語った天使ガブリエルの

彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて (1:15)

の言葉を思い起こしたでしょう。マリアの挨拶にお腹の子どもが踊り出したことからエリサベトは、マリアの幸いを讃えます。

 あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

 聖書の御言葉には命が詰まっています。小さな種に喩えられる言葉に、目に見えない(神の)命があり、その言葉は大きな木に育ち、実を結ばせる一切の命が秘められています。イエス様は

わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である (ヨハネ6:63)

と言われました。ペトロは


あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

 (ペトロ一1:23)


と書きます。

 耳で言葉を聞き、頭で考え、私たちの心を動かします。喜びも怒りも悲しみもそこから湧いてきます。心もどこにあるのか見えませんが、確かにあります。誰が、人の思いまで読めるでしょう。しかも、その心の奥底の、誰にも知られない魂の領域にまで言葉は届きます。言葉が霊であることが分かります。ですからヘブライ書では


神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです (4:12)


と書いています。

 大きな奇跡的なことではなく、日常のわずかな動き、心と体のわずかな変化、そうした出来事に神の導きを見ることのできる人は幸いです。


心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。


と言われた主イエスの言葉。


主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。


というエリサベトの言葉。

イエス様がトマスに言った


見ないのに信じる人は、幸いである。

(ヨハネ20:29)


のという言葉。今、主が、幸いである、とおっしゃってくださる信仰に立ちたいものです。

 目に見える出来事の背後に、全てを導かれる方を知る。「見えざる神を見る」、それが信仰と言えます。

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