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2023年1月8日(日)主日礼拝説教(要約)


  説 教  目標を目指して

                    吉平敏行牧師


   聖 書  ヨシュア記 3章7〜17節

        フィリピの信徒への手紙 3章12〜16節

 フィリピの信徒への手紙は、しばしば「喜びの手紙」と呼ばれてきました。パウロは、ローマの獄中で、状況によってはいつ死刑になるかわからないような状況でも、自分は喜んでいる、だからあなたがたも喜ぶように、一緒に喜ぶように、と勧めるのです。パウロ自身が、到底喜べない状況にもかかわらず、フィリピの信徒たちには「喜びなさい」と命じているのです。

 しかし、命じられて喜べるものなのか。昨年2月に始まったウクライナへのロシアの侵攻が収まらず、社会にはいたるところで凶悪な事件が起こり、経済は下向き、政治は停滞。国民の不信は明らかに募っている。こうした状況で喜べるか。パウロとは比べ物になりませんが、パウロの「喜びなさい」との命令を、私たちはどう受け止めたら良いのか。

 「右を向け」と言われたらそうできます。「止まれ」と、命じられれば止まるでしょう。しかし、感情に「喜びなさい」と命じられて、すぐ「はい、喜びます」と答えられるのか。4世紀後半のキリスト者アウグスチィヌスは、「告白」でこんな言葉を残しています。

 「いったい、こんな奇怪なことは、どこからおこってくるのでしょうか。なぜ、こんなことがおこるのでしょうか。精神が身体に命ずると、身体はただちに従うのに、精神が自分に命ずると、さからうとは」(第8巻第9章)。アウグスチィヌスは、そういう自分の体と心の仕組みを「精神の病」と呼びました。使徒パウロも、それを「死に定められたこの体」と呼びました。自分の体に働く罪と死の法則、万有引力のごとく避けられない、その力から抜け出るにはどうしたら良いのか、ということです。

 実は、この手紙の「喜ぶ」あるいは「一緒に喜ぶ」に対して「考える」とか「思う」と訳される動詞が10回出てきます。感情、気持ちに訴える「喜ぶ」という言葉と思考に訴える「考える」という言葉がこの手紙では重要な意味を持ってきます。

 この手紙はどんな状況でも「喜べる」ようになるための秘訣が書かれています。それが「考える」です。心は素直に喜べないけれども、考え方は変えることができる。ですから、3章15節では「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」と書いています。もし、パウロの考えとは違っているなら、神様は、その違いを正してくださる。考え違いを修正すれば良いのです。散歩や適度な運動、趣味など、それぞれ気分転換を図ることはなさるでしょう。アンパンマンの歌なら「いいことだけ、いいことだけ、思い出せ」です。そういう中で、聖書の御言葉は浮かんでくるでしょうか。信仰の年数が増すごとに、こんな時、あの書簡を、今日は、この預言書を、と自分の気づかないでいる思いを補うかのように御言葉に渇くとすれば健康です。

 パウロは、投獄された状況についても、こんな風に考えるのです。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主を信じている兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、神の言葉を語るようになったのです」(1:12〜18)ある者はねたみと争いの念にかられて宣教すれば、善意からそうする者もいる、と言います。一方は、獄中のパウロをいっそう苦しめるし、他方は愛の動機から福音を伝えてパウロを助けようとする。しかし、パウロはこう言います。

だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。

 この手紙の結びには「すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです」(4:22)とあります。普通では接することができない人々に、獄中だから接することができるようになった人たちです。獄中のパウロに、皇帝の家に仕える人、あるいは皇帝の親族からのフィリピの人たちへの挨拶が添えられているのです。

 こうした突き抜けた境地を、「達観する」と言います。修行を積んだ禅僧のような人たちについて聞く言葉です。しかし、クリスチャンからあまり聞きません。よく考え、議論しますが、計算が先走り、逆に心が沈んでしまう、ということはないでしょうか。そこでパウロはこう言います。

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(1:9〜10)「知る力と見抜く力」を身に付ければ、本当に重要なことを見分けられる。これは、まさしく達観ではないでしょうか。

 フィリピは、パウロが2回目の伝道旅行で入った、ギリシャ世界の最初の町です。そこは「ローマの植民都市」(使徒16:12)でした。市民は奴隷としてではなくローマ市民として待遇され、ローマ市民のあらゆる権利が与えられていたと言われます。パウロが占いの女性から霊を追い出したことで商売ができなくなったと、腹を立てた主人は、パウロたちに「自分たちはローマ帝国の市民である」と言っています。その「ローマ帝国の市民権」を多額のお金を出して買った人もいます。またユダヤ人はローマ帝国では特別な待遇を得て、自分たちのコロニー(居住区)を持つことが許されていました。3:20で「本国」と訳された原意は市民権という意味です。ユダヤ人は民族性を保ち、ローマ市民として生きられる。さらにフィリピの信徒たちは、信仰による神の国の市民でもあるのです。

 日本ではクリスチャンは少数派ですから、信仰を持つことについて遠慮しながら考える癖がついてしまったかもしれません。私たちが、日本国憲法下で、どうして信仰についてはっきり表明できないのか。明治期のキリスト教について隅谷美喜男先生が「政府の黙許の下に、日陰者として冷遇されながら成長した」と言われた言葉が残っています。まだ、クリスチャンが市民権を得ていないのです。それは、聖書の御言葉を咀嚼した上で、信仰が自分の生き方にまでなっていないからでしょう。パウロは「キリスト・イエスを誇る」と言いましたし、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」と言うのです。私たちは、もっと、伸びやかに公然と生きていって良いのです。

 そこで、今日の13節以降の言葉の意味がつかめてくるでしょう。

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 別のところでパウロは、競技場で走る選手の例から、賞を受けるのは一人だけだから、あなたがたも賞を得るように走りなさい、と勧めます。そのために節制しなさい、それは朽ちない冠を得るためであると書いています。そして、「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」と書くのです。これはエコの考え方でしょう。

 優勝を目指すアスリートたちは、自分の弱点を探り、そこを改善するために学び、研究し、鍛錬します。最近は、精密な機械に基づくデータを分析し、体の栄養、筋力の付け方、心肺能力の向上、持久力の強化、チームワークの形成、相手の研究、勝つためのあらゆる議論をします。喧嘩越しの激論もしますが、分裂はしないでしょう。分裂したら弱くなると知っているからです。そうした真剣な議論が果たして教会で起こるでしょうか。どうしたら、教会は知恵を使って強くなれるのでしょうか。正義の主張をするから喧嘩別れになるのです。愛による健全な議論の積み重ねを通して、一緒に教会を建て上げていくという一体感が生まれます。パウロは「一つの霊によってしっかりたち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており」(1:27)と言ったのです。聖霊の御支配のもとに可能なはずです。

 私たちが神の言葉を聞き、「知る力と見抜く力」を身につけ、愛によって「本当に重要なことを見分けられるようになる」ことです。難易度は高いですが。クリスチャンの先達も悩みながら、神にすがり、祈りながら主の教会に仕えてこられました。その結果、こうした礼拝が続いて来たのです。この時代の問題は、この時代を生きる私たちが考えていかねばなりません。

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