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2023年1月15日(日)ファミリー礼拝説教(要約)


   説 教  主イエスだけを見つめよ 

                   吉平敏行牧師 


   聖 書  イザヤ書 41章8〜13節 

        マタイによる福音書 14章22〜33節

 そもそも、主イエス・キリストの弟子とは何であろう。何を身に付ければ「主の弟子」と言えるのか。主は、そのために人を選び出し、群衆とは区分して、弟子たちを特別に訓練される。「訓練」とは、その後、その道を歩むために有益な基本を身につけることであり、一定の基準に達していなければ、その後の成長も望めない。訓練は厳し過ぎても、甘やかしてもならない。

  では、キリスト者の「訓練」とは何か。漠然とした精神主義に陥らず、一生、信仰によって歩む視点と姿勢を身につけることである。その方法は一様ではなく、自分に合わなければ止めることも出来る。しかし、何の訓練も受けなければ成長はない。

  弟子たちの訓練の場がガリラヤ湖であった。そこで、彼らはイエスから直々に信仰の訓練を受けることができた。

  今日の話の直前に、5,000人のパンの奇跡があった。イエスへの群衆の期待も高まっていた。弟子たちにもイエスの弟子として誇らしい思いもあったろう。

  しかし、こうした時こそ注意しなければならない。イエスご自身も、洗礼者ヨハネが殺されたと聞いて、世の中への危機感を持っておられた。ご自分で一人静かに祈る時が必要であった。そこでイエスは、22節「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」「群衆を解散させた」のである。注目したいのは、その「強いて」である。

  人から強いられるのは嬉しくはない。自分で学ぶ分には楽しい。しかし、よく知らない世界については、初めに基本姿勢が身につかないと、結局は自己流に流れ、成長は期待できない。どうして、訓練が必要なのか。その結果として、何が得られるのか。毎週礼拝に来て、説教を聞く、賛美する、祈る、そして互いに挨拶を交わして帰る。私たちは、神を礼拝する者としてどういう訓練を受けているのか。そして、新しい一週間をどう生きるのか。週、一回、1時間少々だが、これまでどれほどの時間をかけて礼拝者としての訓練を受けてきたことか。 

 強いられることには意味がある。弟子たちは、イエスから強いて舟に乗り込まされたのである。そうでもしなければ味わえないことがある。やりたいことだけやっていては、世界は広がらないだろう。主イエスには、弟子たちに何かを習得させる目的があったのだろう。

  もう一つ、「すぐに」という言葉が頻繁に出てくる(22節「それからすぐに」、27節「すぐに話しかけられた」、31節「イエスはすぐに手を伸ばして」)。この「すぐに」は、時間的な速さだけでなく、いつでも主イエスが近くにおられるという距離の近さでもある。人と人との距離は大切である。イエスの弟子との間合いの取り方は的確であった。このまま放っておけないと思われれば、「すぐに」弟子たちを舟に乗せる。弟子たちが怖がれば、「すぐに」「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声を掛けられる。「主よ。助けてください」と叫べば、「すぐに」手を伸ばして助けて下さる。同時に、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と苦言も呈する。イエスご自身による訓練を受けた弟子たちは、何と幸いなことか。

  では、何を身につけたら、その訓練は終了と言えるのか。それが、弟子たちがこの時学ばねばならなかったことである。

  たとえ奉仕でも、自分がしたいこと得意なことをやっているだけでは訓練にはならない。訓練とは、最低限の規則や基準を身につる場である。基本が身につきさえすれば、あとは自分で経験を重ねてながらその道では自由になっていくであろう。

  しかし、弟子たちからすれば、主はどうして無理にでも舟に乗せたのか、とは思ったであろう。夜になって嵐が起こり、逆風で漕げども、漕げども舟は進まない。なぜ「あの時に舟を出されたのか」と悔いる。その時でした。イエスが湖の上を歩いて弟子たちの方に向かって来られた。

  強風の湖の上を動く人影、幽霊だと思っても不思議はない。彼らは、恐怖の余り叫び声を上げる。すると「すぐに」、イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけられる。その声の主がイエスだと分かったペトロは、「あなたでしたら」と声を掛ける。もし、本当に私の主でいらっしゃるならば、「私に、水の上を歩いてあなたのところまで行くよう、命じてください」とお願いする。これは、師匠としては嬉しい言葉であろう。この時のペトロは「強いられて」そう言ったのではない。

  ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んでいった。何と、ペトロは水の上を歩き始めたのだ。なぜか。主が「来なさい」と言われたからである。イエスの「来なさい」は、行けることを意味している。それが、イエスの招き方である。その招きに応えた者が、弟子となる。  このペテロの大胆さには感心させられる。「主が、そう仰られるので」と応じたのだ。ところが、やはり沈みかけた。普通は直ちに沈むから、「沈みかける」状態は起こらない。ペトロはイエスに集中していたので、風も意識されず、歩き始めた。しかし、次の瞬間、強い風に気がついて、沈み始めたのである。沈み始めて怖くなったのではなく、怖くなって沈みかけた。もし風を意識しなければ、そのまま歩き続けたであろう。そこに、イエスを見つめ続ける我々への教訓がある。奇跡を期待する訓練ではない。まだ、歩いたこともない道を踏み出す、主イエスへの信頼の訓練である。私たちがイエスキリストを見つめるとは、どういうことか。イエスに集中するとはどういうことかを考えていかねばならない。

  歴史上、イエスの招きに、どれほど多くの人が応えて、進み出したことか。その行き先も知らずに、イエス・キリストを信じますと告白し、洗礼を受けて信仰の道を歩み始めた。堅実に考える人からすれば思い込み、無謀であり、愚かに見えたであろう。しかし、信じる者は幸いである。

  そうでなければ宗教改革は起こらなかったであろう。アメリカの公民権運動は起こらなかったであろう。また、教会の受付に置かれた一枚のトラクト、「キリストの働き人を求む」を見て、それを主イエスの招きと聞かなければ、シュバイツアーが30歳になって医学を学び始め、後の50年をアフリカの人々のために捧げることにならなかったであろう。周囲には聞こえない主イエスの「来なさい」を聞いた人々である。

  高村光太郎の「道程」の始まりは「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」で知られる。中国の作家の魯人の自伝的小説「故郷」の終わりが、「私は、思った、希望とは元来あるともいえぬし、ないともいえぬものだ。それはちょうど地上の道のようなものだ。実は地上にはもともと道はない。歩く人が多くなれば、道もできるのだ」も至言である。 主イエスの「来なさい」を、この時代の中で再解釈する必要がある。この行き詰まりの時代に漕ぎあぐねている者たちで、主イエスの「来なさい」を聞いた人は、その言葉に賭けてみる価値はある。

  ペトロは強い風に気がついて怖くなり、湖に沈み出し、慌てて「助けてください」と叫んだ。すると、「すぐ」にイエスは手を伸ばしてペトロを捕まえて言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」「信仰の薄い者」とは「小さな信仰」という意味である。不信仰、信仰がない、と責めているのではない。信仰はあるのだが「小さい」と仰る。直前にあれほどの群衆が満腹するパンの奇跡を見たではないか。その軌跡に、何を見たのか。なぜ、もっと大胆に信じないのだ、と言われたのだ。

  確かに、ペトロは主イエスの「来なさい」に応じて一歩踏み出した。そして、湖上を歩いた。その、最初の信じ方で良かったのである。信仰は主が与えてくださったものである。自力で信仰を守るのではない。よそ見をせずに、主イエスを見つめ続けることである。

  ペトロとイエスが舟に乗り込むと風は静まった。弟子たちは、「本当に、あなたは神の子です」と告白してイエスを礼拝したのである。彼らの訓練の目的は、イエスが「神の子」であると知ることにあった。

  今は神から、一斉に訓練を受けていると言えるのではないか。世界が、日本が、教会がこうした逆風の中でもがいている。その只中で、キリスト者は、主イエスの声をどう聞き分けたら良いのか。今こそ、聴き方の訓練を受けなければならない。無牧師の教会が増えてきている。その只中で、主イエスは「わたしだから、恐れることはない」と言われる。ペトロのように「それが本当にあなたからのものでしたら、行かせてください」と、応じたいものである。

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