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2023年1月22日(日)主日礼拝説教(要約)


   説 教  神の賜物を問う

                    吉平敏行牧師 


   聖 書  エレミヤ 31章23〜26節 

        フィリピの信徒への手紙 1章27〜30節

 「福音」とは、喜びの知らせという意味ですが、単にありがたい知らせではないことを29節が教えます。少し、わかり易く訳し直すと「あなたがたが、キリストのためにと恵みを受けたのは、単にキリストを信じるという信仰だけでなく、キリストのために苦しむということもあるのです」となります。福音には、救われた恵みと、キリストのための苦しみが含まれているというのです。

  「羊頭狗肉」という格言があります。表の看板には羊の頭を掲げて、実際は、価格が安い犬の肉を売っている、ということから、外見や見てくれが良くても、内容や実質が伴っていないことのたとえとして使われます。ただ犬を食する文化もありますから、安易に使うのは失礼ですが、表向きを良く見せながら、一歩、足を踏み入れたら大変なことになるというのが、最近騒がれている旧統一教会問題です。私も大学のキャンパスで声を掛けられた経験があります。私とほぼ同世代の方々が入信し、その子供たちが、今、問題を抱えて苦しんでおられる実態が明らかになってきました。

  しかし、聖書を開いてイエス・キリストを信じることが救いである、と伝えるキリスト教の伝道とどこが違うのか。さらに、キリスト教の教会であっても、指導者がカリスマ化し、信者がものを言えなくなり、カルト的な傾向を持つ教会もあるとなると、ますます分かりづらくなってきます。イエス・キリストを信じたことで与えられた救いが本物かどうかを何によって識別するのでしょう。

  この手紙は、パウロがローマにおいて軟禁状態で書かれたものです。捕らえられたからには、何か罪を犯したのであろうと想像します。パウロを悪く言いふらす者もいましたが、兵営でのパウロの評判は、すこぶる良かったのです。ですから、パウロは、彼らが上辺のことだけで判断しないようにと、「知る力と見抜く力を身に着けて、愛が豊かになって、本当に重要なことを見分けることができるように」(1:9〜10)と祈るのです。

  十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かに聞こえるが、救われる者には神の力であると書いているように、福音は、それを聞く人の聞き方によって力の現れ方が違ってきます。福音は、まっすぐに語られていくときに人を二分していきます。福音の中心がイエス・キリストの十字架であり、その苦しみを抜きにした福音はないからです。

  ですから、福音によって救われているかどうかは、その後の信徒の歩みによるというのがパウロの考えです。パウロは「ひたすらキリストの福音に相応しい生活を送りなさい」(27)と勧めます。単にクリスチャンらしく立派に生きなさい、ということではありません。そもそも、今日のクリスチャンのイメージすらありませんでした。初期の、名もない宗教、ユダヤ教からは「分派」と揶揄されるような集団でした。

  パウロが、この手紙を書いた目的は、4:2〜3に記されています。二人の婦人の間が良くなかったようです。いずれも、パウロが初めてフィリピにキリストを信じる人の群れを起こしていく時に、一所懸命支えた人たちです。自分の家を開放する、周囲からの反対を受ける。パウロは、彼らの最初の苦労を知っています。知っているだけに、そういう関係に陥った二人が気の毒になります。ある事で判断が分かれ、互いに自分の考えを譲らず、次第に距離ができていったのでしょう。それは、今日でも見られることですし、人が一つの信条に基づいて集まるとは、絶えず「正しい」解釈を巡って摩擦が起こるのです。

  そこで、パウロは「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦って」(27)と書くのです。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2:2)と頼むのです。互いの努力なしに関係は縮まりません。

  そこに「福音にふさわしい生活を送る」とは、私たち、キリスト者の生き方が問われていると読むことができます。この「生活を送る」と訳された原語を「市民としての義務を果たす」と解釈している研究者がいました。そこが「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも含まれる」という理解に通じます。つまり、福音は良いことづくめではなく、必ず苦しみという課題が含まれる。なぜなら、福音の源が、神の子イエスが人として来られ、身をもって神に従い、十字架の死に至るまで忠実であった苦しみのゆえの救いだったからです。福音は、キリストの苦しみを抜きにしては成り立ちません。つまり、神と人間の間に、仲介者がいなければ成り立ちませんでした。

  「カルト」についての専門家の討論会がNHK出版から最近出ましたが、その中で浄土真宗本願寺派の住職の方が、カルトと宗教との見極めの目安について話しておられました。

  絵画で景観を捉える時の手法として「近景・中景・遠景」という区別を上げ、それを宗教の構図に当てはめて、「私自身」の問題は近景、遠景には「聖なるもの」「聖なる領域」が設定できる。その聖なるものと私自身とが直結するのが宗教体験といわれる。その「私自身」と「聖なるもの」との間、つまり中継に、文化や地域コミュニティーなどの中間領域がある、と仰います。そして、「宗教は、それらのバランスを取ることを考えなければならない。カルトや原理主義と呼ばれるものは、中景がとても痩せていて、私自身と聖なるものとが直結してしまう。つまり、日常としての中間領域がすごく軽視されて、その結果、中景が痩せてしまっているのではないかと思う」とありました。(NHK出版新書 「徹底討論!問われる宗教と”カルト”」から)

  自分と神とを直結して宗教体験を得ようとするのは福音ではありません。感覚的に神を知ろう、体験しようとしてはならない、ということです。神の言葉と人の言葉との中間に聖書があり、キリストと私たちとの間に教会がある。誰一人として完璧な者はおらず、そういう信者が集まって、神を礼拝するのです。どうやって「心を合わせ、思いを一つに」できるでしょうか。そこに、「苦しみ」が存在するのです。本来の福音を伝えようとする者たちは、中間に立ちます。パウロは「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ1:24)と書いています。キリストの苦しみは十字架で十分だけれど、地上の教会は、そのキリストの苦しみを十分に担いきれていない。そのかけを補うべくパウロが身をもって満たしている、というのです。この中間に立つキリスト者なしに教会は建ちません。福音にふさわしい生き方をする信者が育って、教会は育っていきます。

  いつの時代も“正論”を語る人たちによって、教会は痛みを抱えてきました。記された文言どおり守らねばならないと考える人たちは、そうできない人を批判します。ファリサイ派や律法学者たちが正論を語り、イエス様を苦しめた、ということを思い出さねばなりません。

  おそらく、フィリピの教会でも、そうした決まり事をめぐる言葉の争いがきっかけでしょう。二人の婦人たちにも、夫々の主張もあったでしょう。パウロが「一つの霊によってしっかりと立つ」と勧めたのは大きな課題です。  福音によって救われ、感謝する人は多いのです。しかし、教会が一つになっていくためには、目に見えない考え方の違いが争いの種になってきます。自分の正義を主張する前に、立ち止まって考える必要があります。

  その手がかりの一つが4章5節です。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」という言葉です。新共同訳は「広い心」、新改訳は「寛容な心」と訳す言葉の原意は、「法律や習慣の言葉の全てについて正しくあることを主張しない」ということです。文言の全てについて正しくあることを主張し続けないこと、ということです。

  福音にふさわしい生活は、謙虚にわきまえて穏やかに生きるということに尽きるでしょう。自分が正しいと思うことを語ることは大切です。その口を封じてはなりません。しかし、それをあくまでも主張し続けることは賢明ではありません。むしろ、穏やかな対話を始めることが必要です。カルトやカリスマ的な教会には、対話を積み重ねる柔らかさはありません。

  キリストの教会が、正しさで人を裁くのではなく、キリストの苦しみを担いつつ、弁えのある柔軟性を身につけていったら、信用も回復していくのではないでしょうか。

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