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2023年1月29日(日)主日礼拝説教(要約)


   説 教  恵みと平和の源 

                  吉平敏行牧師 


   聖 書  イザヤ書 56章1〜8節

         ガラテヤの信徒への手紙 1章1〜5節

 今回から、ガラテヤの信徒への手紙を連続講解という形で始めていきたいと思います。聖書の読み方として、自分の信仰を吟味するという、キリスト者として極めて基本的なデボーショナルな読み方と、より広く、神の救いのご計画全体、それが旧約聖書から新約聖書、さらにその中のパウロの書簡という関係の中で、より広い繋がりの中で、多少研究的に読む読み方があります。今回は、そうした研究的な要素も含めて少し掘り下げて読んでいこうと思います。読み解きたい一つの目標は、パウロが掲げる「キリストにある自由」です。今日の大きな問題にもなってくる、宗教とカルトといったことも心の片隅に置いておかねばなりません。聖書を読みながらどうして軌道が外れていってしまうのか、ということも考えてみたいところです。連続講解説教は、聖書そのものから、今、与えられている信仰理解について考え直すことも意図しています。そうすることで、聖書の読み方が変わってくることも期待しています。

  「使徒」とは、何と名誉ある称号でしょう。イエスご自身から直接任命され、十字架と復活の証人として立てられた12人の弟子たちにつけられた称号です。手紙の冒頭は「パウロ、使徒」から始まります。パウロが書いた13通の手紙には、「使徒」という称号をつけない手紙もあります。それだけに、この手紙で、「使徒」——神の全権大使——という称号を付けたかった理由を想像します。どうしても、自分が「使徒」であることを明言せねばならない理由があったのでしょう。ここに、ガラテヤの教会に対するパウロの挑戦的な姿勢を感じます。

  それは、信徒たちの中に、パウロがペトロやヨハネのような使徒ではない、といった疑いや反発があったからです。あるいは、主イエスの実の弟ヤコブのような信頼を得ているわけでもありません。むしろ、パウロはかつて教会を迫害していた者です。ですから、ガラテヤの信徒たちの間で、パウロの使徒性について疑念が起こったとしても不思議ではありません。しかし、パウロとしては、少なくとも私はあなたがたにとって使徒ではないのか、イエス・キリストの福音をあなたがたに伝えたのは私であり、あなたがたは私から福音を聞いて救いを得たのではないか、という思いはあったでしょう。

  パウロは、ユダヤ人家庭に生まれ、律法に関しては厳格なファリサイ派の一員でした。そんなパウロにとって、「この道の者」と呼ぶ、ガリラヤのナザレから出たイエスを主と仰ぐ一派は驚きであり、容認できるものではありませんでした。彼らはユダヤ教の「背教者」であり、取り締まって当然であり、それはパウロには神への奉仕でした。

  ユダヤ人を「いつも聖霊に逆らっている」(使徒7・51)と批判したステファノの石打ちの刑に賛成の票を投じ、上着の番までしていた、と自分で証言しています。そんなパウロが、大祭司の書状を手に一団を率いてダマスコへ向かう途中、天からイエスの声を聞いたのです。まさに、青天の霹靂でした。その出来事こそ、神の子としてのイエスの啓示でした。復活したイエスは「神」であり、それは「神の子」の啓示であり、このイエスこそユダヤ民族が待ち望んでいたメシアであると理解したのです。

  「我らの神、主は唯一の主である」(申命記6・4)と告白する主と、天から「わたしはイエスである」と名乗ったイエスとの関係は何なのか?十字架で死んだはずのイエスは生きていて、天から自分に声を掛けた。では、イエスこそ神ではないのか。このパウロの頭の混乱状態を想像します。連れの者たちに手を引かれてダマスコに入ったパウロは、三日間、目が見えず、食べることも飲むこともできませんでした。そんなパウロを、イエスの弟子アナニアが訪ね、パウロに手を置いて「聖霊で満たされ流ように」と祈ると、彼の視力は回復し、直ちに洗礼を受けて、ダマスコの街で「この人こそ神の子である」とイエスについて語り始めます。

  パウロが自らを使徒と表明する根拠は、このイエス・キリストご自身による啓示であり、人の組織や制度また教育、特別に力ある立場の人から付与された肩書きではなく、ただ神によって付与された称号でした。  キリストは「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のため死んだ」(コリント一15・3)方です。「キリストは、わたしたち罪人のためにご自身をお捨てになられた」という定型文一つとっても、私たちの救いの根拠は聖書に基づきます。パウロは、このイエスを「わたしを愛し、わたしのためにご自身をお捨てになった神の御子」(ガラテヤ2・20)と告白します。神の子イエスはすべての人の罪のために死なれたけれども、それは、私のためであると理解しています。私たちにとっての救いも、私とイエス・キリストとの個人的な関わりから始まります。

  ペトロがイエスを「あなたはメシア、いける神の子です」と答えたのに対して、イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16・16〜17)と言われたことも、イエス・キリストが「神の子」と理解できるのは、神の啓示によることを示しています。私たちもイエス・キリストを信じ、神が聖霊を遣わしてくださったがゆえに、神を「わたしたちの父よ」と呼ぶことができるのです。今や、イエス・キリストを「主」と告白して、父である神を讃えることができるのです。わたしたちは聖霊によって、父なる神と主イエス・キリストとが、区分されながら切り離すことのできないひとりの神であると知ります。三位一体と呼ぶ神の理解につながりますが、パウロの理解はもっと深いものだったでしょう。私たちは、主イエス・キリストを「神の子」と告白することで十分なのです。それが神の啓示によるものです。

  わたしたちがまことの神を知るために、イエス・キリストは十字架にご自分の命を差し出されました。このイエス・キリストの神への従順が、父なる神に受け入れられたのでした。イエスの苦難を通してでしか、私たちと神とをつなぐ道が開けなかったのかと思うと、人間の神に対する頑なさと罪深さとを思います。生まれたままでは神を知ることはなく、生きている間に、新しく生まれる機会が与えられるとしたら、それは神の恵みによります。神の憐れみ無くして人が救われることはありません。

 「この悪い時代」(4節)とは、戦争や凶悪な犯罪などから、私たちが感じる「悪い時代」という意味だけではなく、神の御子イエスが世に来られ、まことの神を知る機会が提供されているにもかかわらず、その知らせに耳を傾けようとしない悪しき時代を指しています。そこに神の訪れを伝えているのが福音です。  主がアブラハムに「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12・1)と語られたとき、その神の言葉は、すべての人に向かって、「父」という言葉に象徴される地縁・血縁による繋がりから解き放たれ、ただ神の言葉をたよりに、神が備え、導かれる約束の地を目指すよう勧められているのです。自分の中に無自覚の内に深く根ざし、自分を引きとどめている「父なるもの」から自覚的に離れ、神が「約束された地」がある、と信じて信仰の旅に出るのです。そこがどのような地であるかは、徐々に明らかになってくるでありましょう。そのために主なる神が私たちを導き出してくださったのです。その地は「完全な自由」(5・1、13)と呼ばれます。

  ガラテヤ書を連続して学びながら、私たちがその自由の中に導きいれられていることを確かめたいと思います。 今回から、ガラテヤの信徒への手紙を連続講解という形で始めていきたいと思います。聖書の読み方として、自分の信仰を吟味するという、キリスト者として極めて基本的なデボーショナルな読み方と、より広く、神の救いのご計画全体、それが旧約聖書から新約聖書、さらにその中のパウロの書簡という関係の中で、より広い繋がりの中で、多少研究的に読む読み方があります。今回は、そうした研究的な要素も含めて少し掘り下げて読んでいこうと思います。読み解きたい一つの目標は、パウロが掲げる「キリストにある自由」です。今日の大きな問題にもなってくる、宗教とカルトといったことも心の片隅に置いておかねばなりません。聖書を読みながらどうして軌道が外れていってしまうのか、ということも考えてみたいところです。連続講解説教は、聖書そのものから、今、与えられている信仰理解について考え直すことも意図しています。そうすることで、聖書の読み方が変わってくることも期待しています。

 「使徒」とは、何と名誉ある称号でしょう。イエスご自身から直接任命され、十字架と復活の証人として立てられた12人の弟子たちにつけられた称号です。手紙の冒頭は「パウロ、使徒」から始まります。パウロが書いた13通の手紙には、「使徒」という称号をつけない手紙もあります。それだけに、この手紙で、「使徒」——神の全権大使——という称号を付けたかった理由を想像します。どうしても、自分が「使徒」であることを明言せねばならない理由があったのでしょう。ここに、ガラテヤの教会に対するパウロの挑戦的な姿勢を感じます。

 それは、信徒たちの中に、パウロがペトロやヨハネのような使徒ではない、といった疑いや反発があったからです。あるいは、主イエスの実の弟ヤコブのような信頼を得ているわけでもありません。むしろ、パウロはかつて教会を迫害していた者です。ですから、ガラテヤの信徒たちの間で、パウロの使徒性について疑念が起こったとしても不思議ではありません。しかし、パウロとしては、少なくとも私はあなたがたにとって使徒ではないのか、イエス・キリストの福音をあなたがたに伝えたのは私であり、あなたがたは私から福音を聞いて救いを得たのではないか、という思いはあったでしょう。

 パウロは、ユダヤ人家庭に生まれ、律法に関しては厳格なファリサイ派の一員でした。そんなパウロにとって、「この道の者」と呼ぶ、ガリラヤのナザレから出たイエスを主と仰ぐ一派は驚きであり、容認できるものではありませんでした。彼らはユダヤ教の「背教者」であり、取り締まって当然であり、それはパウロには神への奉仕でした。

 ユダヤ人を「いつも聖霊に逆らっている」(使徒7・51)と批判したステファノの石打ちの刑に賛成の票を投じ、上着の番までしていた、と自分で証言しています。そんなパウロが、大祭司の書状を手に一団を率いてダマスコへ向かう途中、天からイエスの声を聞いたのです。まさに、青天の霹靂でした。その出来事こそ、神の子としてのイエスの啓示でした。復活したイエスは「神」であり、それは「神の子」の啓示であり、このイエスこそユダヤ民族が待ち望んでいたメシアであると理解したのです。

 「我らの神、主は唯一の主である」(申命記6・4)と告白する主と、天から「わたしはイエスである」と名乗ったイエスとの関係は何なのか?十字架で死んだはずのイエスは生きていて、天から自分に声を掛けた。では、イエスこそ神ではないのか。このパウロの頭の混乱状態を想像します。連れの者たちに手を引かれてダマスコに入ったパウロは、三日間、目が見えず、食べることも飲むこともできませんでした。そんなパウロを、イエスの弟子アナニアが訪ね、パウロに手を置いて「聖霊で満たされ流ように」と祈ると、彼の視力は回復し、直ちに洗礼を受けて、ダマスコの街で「この人こそ神の子である」とイエスについて語り始めます。

 パウロが自らを使徒と表明する根拠は、このイエス・キリストご自身による啓示であり、人の組織や制度また教育、特別に力ある立場の人から付与された肩書きではなく、ただ神によって付与された称号でした。

 キリストは「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のため死んだ」(コリント一15・3)方です。「キリストは、わたしたち罪人のためにご自身をお捨てになられた」という定型文一つとっても、私たちの救いの根拠は聖書に基づきます。パウロは、このイエスを「わたしを愛し、わたしのためにご自身をお捨てになった神の御子」(ガラテヤ2・20)と告白します。神の子イエスはすべての人の罪のために死なれたけれども、それは、私のためであると理解しています。私たちにとっての救いも、私とイエス・キリストとの個人的な関わりから始まります。

 ペトロがイエスを「あなたはメシア、いける神の子です」と答えたのに対して、イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16・16〜17)と言われたことも、イエス・キリストが「神の子」と理解できるのは、神の啓示によることを示しています。私たちもイエス・キリストを信じ、神が聖霊を遣わしてくださったがゆえに、神を「わたしたちの父よ」と呼ぶことができるのです。今や、イエス・キリストを「主」と告白して、父である神を讃えることができるのです。わたしたちは聖霊によって、父なる神と主イエス・キリストとが、区分されながら切り離すことのできないひとりの神であると知ります。三位一体と呼ぶ神の理解につながりますが、パウロの理解はもっと深いものだったでしょう。私たちは、主イエス・キリストを「神の子」と告白することで十分なのです。それが神の啓示によるものです。

 わたしたちがまことの神を知るために、イエス・キリストは十字架にご自分の命を差し出されました。このイエス・キリストの神への従順が、父なる神に受け入れられたのでした。イエスの苦難を通してでしか、私たちと神とをつなぐ道が開けなかったのかと思うと、人間の神に対する頑なさと罪深さとを思います。生まれたままでは神を知ることはなく、生きている間に、新しく生まれる機会が与えられるとしたら、それは神の恵みによります。神の憐れみ無くして人が救われることはありません。

 「この悪い時代」(4節)とは、戦争や凶悪な犯罪などから、私たちが感じる「悪い時代」という意味だけではなく、神の御子イエスが世に来られ、まことの神を知る機会が提供されているにもかかわらず、その知らせに耳を傾けようとしない悪しき時代を指しています。そこに神の訪れを伝えているのが福音です。

 主がアブラハムに「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12・1)と語られたとき、その神の言葉は、すべての人に向かって、「父」という言葉に象徴される地縁・血縁による繋がりから解き放たれ、ただ神の言葉をたよりに、神が備え、導かれる約束の地を目指すよう勧められているのです。自分の中に無自覚の内に深く根ざし、自分を引きとどめている「父なるもの」から自覚的に離れ、神が「約束された地」がある、と信じて信仰の旅に出るのです。そこがどのような地であるかは、徐々に明らかになってくるでありましょう。そのために主なる神が私たちを導き出してくださったのです。その地は「完全な自由」(5・1、13)と呼ばれます。

 ガラテヤ書を連続して学びながら、私たちがその自由の中に導きいれられていることを確かめたいと思います。

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