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2023年2月5日(日)主日礼拝説教(要約)


   説 教  唯一の福音 

                  吉平敏行牧師


    聖 書  申命記 18章15~22節

         ガラテヤの信徒への手紙 1章6〜10節

 原文では冒頭に出てくる6節「驚いています」という、パウロが感情を露わにした言葉に驚かされます。恐らくガラテヤの教会から信徒が複数やってきて、教会の状況を伝えたのでしょう。以前、ガラテヤ地方に立ち寄った時には、そんな雰囲気は感じられませんでした。それが、「こんなにも早く」心変わりし、教会の状況が変わってしまっていたのです。 パウロは手紙の中で「あなたがたのあの幸せはどこへ行ったのですか?」(4:15)と問うています。今教会は、残念ながら噛み合ったり食いあったりする(5:15)というような状態です。

  ここに群れを案ずる牧会者パウロの姿を見ます。自分が手がけ、開拓して起こしていった群れ。あの一人一人の表情まで覚えているのです。今、信徒たちは、自分では救いがわかり、正論を吐いていると思っているかもしれません。しかし、問題は、この世の教えや風習、そうした心や魂を支配する霊的な力から救い出されて、まことの神を知るに至ったのはどうしてか、誰によってか、という救いの出発点について、彼らが忘れていたことです。

  そこに、この問題の深い原因がありました。パウロたちが去ったあと、パウロの教えとは異なる教えを伝える者がやってきて、そこにパウロに反対する人たちが惹きつけられ、その人たちが、他の信徒たちに熱心に働きかけていったのでしょう。まことしやかな教えは要注意です。しかし、「他に福音があるわけではなく」、福音と呼べるものは「キリストの福音」だけです。

  パウロは、かつてイエスの弟子たちを「ユダヤ教の背教者」と見做して捕えていましたが、今回は、自分が伝えた福音から別の教えに鞍替えしていく「福音の背教者」ということになります。本来、律法など無縁、ユダヤ人の割礼を嫌悪するような異邦人であるガラテヤの信徒が、イエス・キリストを信じてから、律法に関心を抱き、ユダヤ教の流れに戻って行く形です。パウロは、その力が、神の恵みから引き離すほどの悪魔的な力であることを知っています。そこで、「呪われよ」(8、9)が出てくるのです。ガラテヤの信徒にも失望していますが、間違った教えを福音のごとく語る者たちが許しがたかったのです。

  こうした「祝福と呪い」の対比は、申命記28章以下に記されています。祝福は「主の御声に聞き従う」者に与えられ、何をしても祝福されるというのです。一方、「もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば」呪われるのです。祝福とはまったく反対の、ことごとく裏目にでる状態が呪いです。ガラテヤの教会に広がっている教えは、主の御声に聞き従わない、呪いを招く教えだったのです。

  パウロの憤りは、福音を聞いて祝福に招き入れられ、その喜びまで味わい、それを分かち合ったにもかかわらず、いとも簡単に惑わされ、神の恵から離れていったことにありました。パウロは自分が労したことは無駄だったのではないか、と悔いるほど残念がっています。

  パウロにとって、人を罪から救う福音を変えようとする教えは、だれが伝えようと、それがパウロであろうと天の使いであろうと、神の御心に背いているということです。イエス・キリストの福音だけが福音なのです。神から切り離され、罪のゆえに死んでいる人間をだれが救い出せるというのでしょう。イエス・キリストが「底なしの淵」(ローマ10:7)にまで下ってくださったがゆえに、どんな罪人も、霊的には死んでいても救い出すことができるのです。命もなく、死んでいる人間が、自分で何かできるとは考えないことです。ここに、神の救いは、首尾一貫して神の側からの憐れみによる、ということが分かります。

  同時に救われた者は、自分の考え方や行動を吟味します。パウロは、自分の良心までも神の霊に照らして問う人でした。伝道旅行の行き先を決める場合でも、聖霊の導き、イエスの霊の導きに敏感でした(使徒16:6~7)。そういうパウロが、信徒に宛てた手紙に、神の裁き、断罪に関わる呪いを書くなど、よほどのことがなければしないでしょう。

  この手紙を書きながら、自分に賛意を示す信徒たちに気に入られようとして書いているのか、呪いの言葉を敵対する者たちに吐くことで、自分は神を喜ばせようとしているのか。だれに対しても公平であろうとして、敵を喜ばせようとしているのか。パウロにとって、キリストの福音とは、そうした人間的な関わりの中で、しかし、まっすぐに語れるべきものでした。

  福音をそのまま語ることによって、信者に分裂が起こることがあります。福音は両刃の剣です。福音は「神の言葉」であっても、語る側も、聞く側にも、弱さがあります。そうした人間の弱さを福音宣教は常に担っています。福音が福音として伝わるためには、どうしても聞いた側が「信じる」ということが必要になってきます。

  人を罪から救う福音は一つです。だれでも福音を信じることによって救われるのです。意見の違いは、福音の根幹に関わることなのか、その時代の価値観や風土といった移りゆく問題なのか。倫理の問題なのか。多くの流血を経て獲得されてきた人権思想や民主主義、社会的少数派とされてきた人々の尊厳の回復等、決して軽んじることのできない課題があります。しかし、そうした視点がキリストの福音から私たちの目を逸らすものであってはなりません。 ガラテヤ書を通して見えてくるのは、「他の福音」とは、イエス・キリストの福音だけでは救いは不十分とする教えの総称です。福音を聞いて、イエスこそ神の御子であり、この方を信じるだけで救われるという救いの出発点に立ち続けることが大切です。信じた後に、イエス・キリストを信じるだけでは不十分であるかのような教えには注意が必要でしょう。救われるために、福音に何かをつけ加える、つまり福音を信じるだけでは不十分とするいかなる教えも拒否せねばなりません。

  パウロも「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたもの」(コリント一15:3)と書く福音によって人は救われ、救われた者が次の人にその同じ福音を伝えるという形で福音は広がっていきました。神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(コリント一 1:21)のです。

  救いは、神の言葉への素直な応答によって与えられます。それが神の恵みです。

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