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2023年2月19日(日)ファミリー礼拝説教(要約)


   説 教  自由を脅かすもの 

                  吉平敏行牧師


   聖 書  創世記 17章7~14節

        ガラテヤの信徒への手紙 2章1〜10節

 ここは、使徒言行録15章のエルサレムでの最初の教会会議を前に、使徒たちとパウロとバルナバが個別に語り合った場面と思われます。

  北方のシリア方面に流れていったユダヤ人キリスト者と周辺の異邦人キリスト者との新しい交わりがアンティオキアに生まれていました。同時に、ユダヤ人としては、先祖アブラハムから引き継がれてきた契約のしるしである割礼を受けること、またモーセの律法を守ることこそ本来の信仰だとする考え方が芽生えてきました。それが、ユダヤ人と異邦人が一緒に集まっていたアンティオキアの教会から起こったのです。使徒言行録15章の「ある人々がユダヤから降ってきて『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と、信徒に教え始めた」ことをきっかけに、パウロやバルナバとの間に激しい論争を生じさせたのです。そこで、アンティオキアの教会としては、パウロとバルナバ、そのほか数名の者たちをエルサレムに上らせることになったのです。

  ここを読むキーワードは、「福音の真理」という言葉です。パウロたちがエルサレムに上ったのは「啓示による」と書かれています。この啓示は、パウロがダマスコ途上で復活のイエスに会った時のような劇的な啓示ではありません。使徒言行録には様々な啓示の形が書かれています。エルサレム会議の決定も、議長のヤコブから「聖霊とわたしたちは、・・・決めた」(15:28)と言われています。このエルサレム訪問は、エルサレム教会から呼び出されたものではなく、ちょうど良い時に、「主の導きによって」なされた出来事と言えるでしょう。

  しかし、宣教の拠点エルサレムの教会に、話題となること必須のギリシア人のテトスを連れていくというのは、覚悟の上のことだったでしょう。パウロは、テトスは異邦人だから割礼を受ける必要はない、とする立場です。エルサレムの教会の主だった人たちの中には、テトスに割礼を受けさせようとする者はいなかったのですが、パウロからすると「偽兄弟」と呼ぶ人々が忍び込んでいて、テトスに割礼を強いる空気が生まれかねなかったというのです。それはパウロが感じ取った“暗黙の圧力”です。

  パウロが大切にしている福音の根幹は「キリスト・イエスによって与えられる自由」です。パウロは5章1節で「この自由へと、キリストはわたしたちを救い出してくださった」と書きます。パウロが掲げる自由は、極めて壊れやすく、法的な掟、戒めが入ると、直ちにその罠にはまって人を不自由にしてしまうようなものでした。パウロは、偽兄弟たちと呼ぶ人々の動きを察知し、エルサレムの教会もアンティオキアの教会にも、ふたたび律法が支配する奴隷状態に引き戻そうとする力を感じ取ったのです。

  福音は、今日の様々な不自由さからも解放してくれるものですが、イエス・キリストを信じたからといって、直ちに自由になるわけではありません。個々の置かれた状況から、時に対話を積み重ねて、自由になる道を選びとっていかねばならないこともあります。福音によってイエス・キリストを知り、罪から自由にされるという解放を味わい、然る後、自分の心と考え方において、だれからも脅かされず、聖書の言葉に基づいて自分の道を進んでいくことになります。

  ですから、パウロが語る「福音の真理」は、私たちの霊と心に自由が与えられ、実際に自由になっていく道を備えさせる本物の自由です。しばしば声高に、社会的な解放や自由を訴える働きも知っていますが、それがパウロが言う自由ではありません。ユダヤ人パウロは、ローマ市民でもありましたから、律法に縛られる生活も世の法律に縛られる生活も理解していたでしょう。そして、キリストの福音だけが与えることのできる自由を知っていました。

  しかし、イエス・キリストの福音は一つですが、その福音の伝え方、伝える対象として、律法を持つユダヤ人と、律法を持たない異邦人といった文化や人間関係の違いがあり、その働きにも違いがあったのです。それに相応しい福音の伝え方があり、異教社会に育った人々には、それにふさわしい福音の伝え方がある、ということです。パウロの一回目の伝道旅行の報告を聞いて、ペトロたちが発見したのはその点です。

  以上から、7節の「彼らは、ペトロが割礼を受けた者たちへの福音を任されたように、わたしが割礼を受けていない者たちへの福音を任されていることを認めました」ということは、お分かりいただけたかと思います。そして、ヤコブ、ペトロ、ヨハネの側から、「一致のしるしとして」と訳されていますが、ここは原語「コイノニア」から「主にある交わりのしるしとして」パウロとバルナバに右手が差し出されたのです。

  どちらが先に手を差し出すかは重要です。パウロの方から手を出して、「よろしくお願いします」ではなく、ペトロたちの側から主にある交わりのしるしの右手が差し伸べられたのです。励ましの言葉も交わされたでしょう。みな自分がその尊い使命に召されたとの自信と誇りを持ってにこやかに語り合っている姿を思い浮かべます。教会会議の理想の姿を見ます。こうした背景があって、使徒言行録15章の会議がまとまりました。

  議長を務めた主イエスの弟のヤコブは、教会からの手紙の最後にこう結んでいます。(初めと途中を端折ります)


 聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。(中略) 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。

使徒言行録15章23~29節 


 信仰の豊かさ、豊かな信仰であるかどうかは、その信仰共同体(教会)に身を置く信者が、いかに自由にものを考え、語り合うことができるかにかかっていると言えるでしょう。教会が福音の自由を知りながら、日本の文化や人の繋がりにある根強い価値観から抜け出せず、聖書的な言葉を使いながら、独自の教会文化を作ってきたことはないでしょうか。初めて加わった人たちとも自由に語り合える雰囲気を作れるはずが、内部の親和性のゆえに外部を排除するような方向に働いていなかったでしょうか。私たちは、様々な思いを抱いて礼拝に期待して集まる人々によって、新しい語り合い、交わり、新しい繋がりを持つことを期待していかねばなりません。

  キリスト者の間に働かれる聖霊によって、一人一人に主から与えられる自発的・創造的な思いが与えられ、それを賜物として互いの間で分かち合っていったら、教会はもっと豊かになっていくでしょう。エルサレムの会議で司会を務めたヤコブは「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」(ヤコブ1:25)と書いています。「福音の真理」は、自由を与えるイエス・キリストを見つめ続ける中に保たれ、そのために自分が何を語り、どう動いたら良いのかを教えます。

  ただ、ここで一点、パウロとエルサレムの使徒たちの間で確認されたことは、イエス・キリストを信じるだけで救われるという異邦人が、それまでユダヤ人社会で大切に守られていた施しや「貧しい人々への配慮」が実行できるかどうかという点でした。そういう面で、パウロは異邦人の教会から献金を集めてエルサレムの教会に送り届けたりしました。しかし、イエス・キリストを信じるだけで救われるとする異邦人キリスト者から成る、その後の教会が、実際に愛に基づく行動に動き出せるかどうかについて、使徒たちは心配したのだと思います。イエス・キリストを信じるだけで義とされるとする教理が、ともすれば、愛の実践、特に献金によって互いを支え合うという共同体意識に欠けるようになるのではないかとの懸念です。それが、異邦人の教会の今日の課題でもあることは、このガラテヤ書の言葉から伺うことができます。  本当の福音は、教会として愛の実践に向かって動かしていくはずです。

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