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2023年3月12日(日)主日礼拝説教(要約)


   説 教  計り知れない恵み 

                   吉平敏行牧師 


  聖 書  ハバクク書 2章1~4節 

       ガラテヤの信徒への手紙 2章11〜21節

 なぜペトロほどの人がそんな首尾一貫しない行動をとったのか、なぜバルナバまでも、その雰囲気に飲み込まれてしまったのか。パウロは、その原因を「恐れ」と指摘し、その恐れを引き起こす根本原因として「信仰による義」について論証していきます。信仰義認は、私たちプロテスタントの信仰に立つ者にとって救いの根本にかかわる重要な教義です。

  ユダヤ人にとって割礼はアブラハム契約に関わる、ユダヤ民族のアイデンティティーと言えりものです。また、神の山ホレブでモーセを介して与えられた律法に基づくシナイ契約は軽んずることのできない掟と戒めです。それらの契約を守ることが民族繁栄の基盤でした。自分たちはイエスをキリストと信じて完全な救いに預かっているとするユダヤ主義者たちにとって、イエス・キリストを信じることが問題なのではなく、異邦人が割礼も受けず、律法を守らなくても同じ祝福にあずかれるのか、という点が問題でした。 このイエスへの信仰と伝統や掟を守るという感覚が、今日の私たちにとっては、どのようなことだろうかと考える必要があります。イエス・キリストを信じるだけで十分、イエス・キリストのみで救われるとする福音は、ユダヤ主義者にとっては割礼と律法を軽んずると受け取られ、私たちには、文化や伝統、その体に染み付いた領域まで捨てなければならないのか、という漠然とした疑問にもつながります。キリスト教を文化の領域で考えるのか、福音という、人の命、永遠の命に関わる領域の知らせと考えるか。微妙でありながら、私たちの中に沸き起こる「恐れ」は、そのような福音理解に関わる重大問題です。

  パウロは「人は律法を行うことでは義とはされず、イエス・キリストを信じるほかにないことを知ったので、わたしたちもイエス・キリストを信じたのではないですか」と言います。イエスが来られ、神の国を伝え、十字架に架けられ、墓に葬られ、三日目に復活したことを知って、そのイエスこそキリストであると信じて、義が与えられると知ったのではないか。それに同意した上で信じたのではないか、というのです。イエス・キリストを信じる明確な根拠があり、その基盤によって信仰を告白したのであり、一次的な感情の高まりにあったわけではありません。

  ペトロもこの点に関して、使徒言行録15章のエルサレム会議でも言っています。彼は、神は異邦人にも聖霊を与えて、異邦人をも受け入れたことを証明し、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間に何の差別も設けなかった (使徒15:8~9)と語っています。また、議長を務めたヤコブも会議の結論として「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはならない」(同19節)と断言したのです。これが、教会の共通理解でした。  律法はユダヤ人とって「負いきれなかった軛」であり、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」ということです。「だれ一人として」とは「すべての肉なる者」という意味です。人は、律法を行うことによっては決して義とはされないのです。

  しかし、ペトロたちの「恐れ」の一件は、そうした知的な理解によるものだけではなく、イエス・キリストを信じれば信ずるほど、自分の中に罪意識が生じて、異邦人のように落ちていく感覚が起こったのです。「異邦人のような罪びと」という言葉は差別的に聞こえますが、それがユダヤ人キリスト者の正直な感覚だったでしょう。

  イエス・キリストを信じたことは良いけれど、イエス・キリストだけを神として、神が与えられた割礼や律法の重要性はどうなるのか、とる。そうすると、無自覚であったのに、キリストが罪をあぶり出す者、罪を引き起こす者となるのか。「恐れ」の原因は、キリストを信じることにあるのか? パウロは「決してそうではない」と即座に否定します。キリストはそんな方ではない、それは我々の理解が違っているからだ、というのです。

  パウロは、「もし、わたしがかつて壊したものをここで再び建てようとするなら、わたし自身を違反者と証明することになるでしょう」(私訳)と言います。「かつて壊したもの」とは、律法を行うことによって神に義とされようとする考え方です。その律法を絶対とする考え方のゆえに、教会(イエスの弟子たち)を迫害し、それがキリストを迫害することになったのだから、その考え方は全く間違っていたのです。再び、そこに戻ったら、それこそ自分をキリストの違反者にしてしまう、ということです。

  ここからが難解です。19節は「わたしは律法によって律法に死んだ。神にあって生きるためである。キリストにあって共に十字架につけられている」と極めてコンパクトです。律法があり、律法が生きることで自分が死ぬことになる。しかし、法が適用されるのはその人が生きている間だけだから、本人が死んでしまえば、法は適用されなくなる。律法によって、わたしは死んでいるからです。しかし、それは自殺ではありません。神の御心を行なって生きるために、律法の影響をどう断ち切るのか、ということが課題です。

  パウロは「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして良いもの」(ローマ7:12)と認めていますから、その律法に対峙したとき、我々は必ず破れます。パウロは、律法の使い方を変えたのです。自分に牙を剥いて、自分を殺す律法により、自分に法の力が及ばないようにと考えたのです。

  律法を全うされたキリストでも十字架に架けられ、呪われた者となって死なれたのです。パウロは罪の体の自分と十字架のキリストを合わせて、「キリストにおいて共に十字架に架かってしまっている」と考えたのです。イエス・キリストを信じてイエス・キリストと一つになった者は、十字架の上でも一つなのです。

  しかし、それでもなお、私たちは生きている。生きていくには、罪の体とは言え、肉体が必要です。しかし、律法のゆえに人は死んだものとなっている。わたしが体を持って生きているのは、死んだ「わたし」ではなく、生きているキリストである。それは、あくまでも信仰によると言うのです。どう考えても正しく生きられない自分ではなく、イエス・キリストに、わたしの内に生きていただく。これを実現するのが、信仰による義です。

  北森嘉藏先生は「真実に苦難に打ち勝つ途は、苦難を自己の本質の内にもつに至ることである。さらに強くいえば、自己が苦難そのものになりきることである。死に打ち勝つ途は、死ぬ前に死んでおくことである」(「神の痛みの神学」p.137)と大胆な書き方をしておられます。「死ぬ前に死んでおけ」これは、学者・研究者の言葉ではなく、宗教家の言葉です。こういう言葉に宗教の真髄が隠されているのです。なぜなら、自分で納得のいかない宗教を信じるわけにはいきませんから。

  「生きているのはわたしではなく、キリストがわたしの内に生きておられる」は実に神秘的で、これがパウロの独白であり、信仰義認の中身でした。パウロがキリストとの関わりを「わたし」という一人称単数形で書いていることは大切です。私たちもまた、全ての人の罪のために死なれたキリストという理解ではなく、私のために十字架にかかって死んでくださったキリストとして理解しているかどうかが問われます。

  信仰によって義とされたからには、もう神の裁きを恐れなくて良くなり、「この体で、この神が造られた世界で、自由に生きていって良い」のだと受け止めます。これほどの神からの恵みをいただいているのですから、この福音を無駄にしてはなりません。それほどまでしてくださった神を、わたしは愛しているのです。

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